禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

高額で契約するということがそんなに素晴らしいことなのか?

2023-12-11 17:45:54 | いちゃもん
 大谷選手が10年間で7億ドルというでドジャースと契約したらしい。日本円に換算すると年俸100億円という途方もない金額が10年間保証されたのだという。日本のメディアを通して見ると、みなわがことのようにそのことを喜びそして誇りに思っているように見える。しかし、私にはそれがそんなに素晴らしいことだとはどうしても思えないのである。決して大谷選手が嫌いなわけではない。私もこの好青年が大活躍すると嬉しいというファンの一人である。しかし、共稼ぎの主婦がパートで時給1000円前後で生活の為に必死に働いている一方で、青年が好きな野球をやっているだけで1年間に100億円も稼ぐ、ということに私はどうしても引っ掛かりを感じてしまうのである。プロフェッショナルな選手として一つのことに全精力を注ぎむ、それはとても価値のあることだし、我々がそのことに対してリスペクトするのは当然のことだと思う。しかし、私はそのことが直ちに労働価値として金額に換算されてしまうということに疑問を持つのである。アスリートにとって競技は神聖なものであって、金額と交換可能なものでは決してない。「年俸100億円なら頑張るけれど10億円ならそれほどモチベーションが上がらない」などという選手がいる筈はない。アスリートはただひたすら自己実現のためにプレイに精進する、だからこそスポーツは尊いのである。

 もちろんドジャースがそれだけの大金を出すのは大谷選手にそれに見合うだけの商品価値があるからだろう。大谷選手が活躍すればますますドジャースの人気は高まり、関連グッズはたくさん売れるし、球場の入場料や広告のスポンサー料も高く売れるだろう。しかし、ドジャースタジアムの入場料(クリック==>「ドジャース 観戦チケットの料金相場」)は既に今でも十分高価で、家族総出で気軽に観戦というようなレベルではないような気がする。スポーツ用品メーカーはもちろんのこと化粧品メーカーまで高いスポンサー料を払ってアスリートを囲い込もうと血道をあげる。 製品の品質改良にコストをかける以上に、人気スポーツ選手を使って商品イメージを高める方が手っ取り早く儲かるからだ。メジャーリーグ・ベースボールに限らず、現在のスポーツビジネスは全般的にコマーシャリズムに毒され過ぎているような気がする。
 
 ここで仮定の話をする。大谷選手が年俸100億円ではなくて20億円で納得したとして、そしてその差額の80億円がドジャーズの観戦客の入場料に還元されたならばどうなるか計算してみよう。年間約160試合して計算すると、1試合当たりの還元額は5000万円になる。そして1試合の入場者数を5万人とすれば、一人当たりのチケット代は1000円安くできるのである。大谷ほどではなくても、ドジャーズには年俸1000万ドル以上の選手が10人以上いる。アスリートだって、努力に応じてある程度は金銭的に恵まれてもよいと思う。しかし、経済的に裕福になればなるほどスポーツのレベルが向上するかと言えば、全然そんなことはないと思う。スポーツそのものを興隆させるためには、一部の選手の給料を押し上げるよりも有効な資金の使い道はほかにいくらでもあるような気がする。けち臭い貧乏人の私は腹の底からそう思うのである。
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