禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

「空」とは何か?

2019-05-02 07:12:47 | 哲学

仏教の原理の一つとして、「絶対」というものを認めないというのがある。すべては相対的であるというのである。究極の真善美を追及する西洋思想とはそこが大きく違っている。「すべては相対的」であることを突き詰めていけば、一切皆空と言わざるを得なくなってしまう。あらゆる概念は関係性の上に成立しているのであって、その本質というものがあるわけではないとする立場、それが空観である。

唯識思想の中では天動説が正しいということになっているらしいが、空観の立場からすれば天動説も地動説も共に主張することはできない。一切皆空であるから、いかなる断定もできないのである。「私にはこのことを説くということはない」というのはそういう意味である。

現代科学では、「地球が太陽の周りをまわっている」というのが正しいとされている。それははたして本当だろうか? 宇宙空間の中で太陽と地球だけしかないと想像してみよう。天体が二つしか無ければ、どちらがどちらの周りをまわっているか分からなくなるはずである。「地球が太陽の周りをまわっている」というのは他の天体との位置関係を考慮すれば、そのように説明するのがもっとも簡潔であるというに過ぎない。空間に目盛が付けられていない以上、地球を中心に他の天体が複雑な動き方をしていると主張しようとすればできないことはないのである。ただ、そうするとその理論はとてつもなく複雑なものになる。 

学校の理科では、電流というのは電子が移動することによって発生すると教えられる。だから、現代人のほとんどは電子というものが実在すると考えている。しかし、誰も電子を見た人はいないのである。と言うか、そもそも原理的に見るのは不可能である。見えなくとも、「そういうもの」があると仮定すれば、いろいろな現象が簡潔に説明できて矛盾がない。哲学的な表現をすれば、「あると仮定すれば上手く説明できる、というところに電子の存在論的価値がある。」ということになる。つまり、いろいろな現象の関係性の上に「電子」という概念が成立しているということなのだ。あくまでそれは仮説であり、絶対的に実在するという話ではない。

現代の言語論では、例えば「犬」という言葉は、世界を犬と犬以外に分節するだけであって、犬の本質というもの直接指示しているわけではない、ということになっている。つまり、言葉によって分節の網を世界にかぶせているわけである。その人の言葉の意味というのは網の目によって決定する。つまり、言葉と言葉の関係性の上に言葉の意味が成立していると言える。Aという人Bという人の言語の網目模様が位相幾何学的に一致していれば、互いに言語上の齟齬が生じるということはない。しかし、ユークリッド幾何的に一致しているということは考えにくい。あくまで、言葉の概念というのも言葉間の関係性でしかないということなのだ。現代言語論も龍樹に追いついてきた、といってもよいのではないかと思う。

赤城山中から富士山が見える。(本文とは関係ありません。)

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