今、「流れとよどみ」という本を読み始めたのだけれど、その序文の一節に感動してしまった。
【 私の目指したのは、世界と意識、世界と私、という基本的構図をとりこわすことである。‥‥(省略)‥‥ 人々は自分の思い込みとは違って、実はこの構図の中で暮らしてはいないのである。意識のスクリーン越しに世界を眺めているように思いこむが実は世界の中にじかに生きているのである。世界のエアポケットのような「心の中」で喜んだり悩んだりしているのだと思い込んでいるが、そのとき世界そのものが喜ばしくあるいは悩ましいのである。世界には喜びや悩みの種だけがあるのではなく、喜ばしさ悩ましさそのものが世界なのである。それなのに人は別様に思い込んできたのである。】
意識のスクリーンに写る世界を記述しようとするとたいてい失敗する。そのような客観的かつ静的な「世界」というものは実はどこにも存在しないからである。
大森も西田も共に主客未分の世界について論じているが、大森の方がより哲学的に洗練されているような気がする。西田の純粋経験論によれば(精神)統一によって主客未分に至るのに対して、大森は世界は常に主客未分だと主張しているのである。
ウイキペディアの「大森荘蔵」を参照すると次のように記述されている。
【(大森の主張する主客合一は)禅などに見られる「主客合一」とは異なり、少なくとも、日常にはそういった区別が無い、ということである。】
これは禅に対する認識不足というものだろう。禅は一般には、坐禅によって主客合一の境地を目指すものと見られているが、単なる境地ということだけではなく、もともとこの世界は主客未分であるということを知るということが大事なのである。
大森荘蔵は野家啓一、野矢茂樹、中島義道という日本を代表するような哲学者を育てた人でもあるが、本人自身の哲学ももっと評価されてよいような気がする。
夕暮れの大桟橋(横浜)