禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

経験あつて個人あるのである

2019-05-10 06:05:50 | 哲学

西田幾多郎の「善の研究」の序文の中の一節に、「個人あつて経験あるにあらず、経験あつて個人あるのである。個人的区別よりも経験が根本的であるといふ考から独我論を脱することができ、‥‥」とある。倉田百三もこの文を読んで感動したと述懐している。 

この世界は一般に物体現象と精神現象からなると考えられているが、西田は「意識現象が唯一の実在である。」と喝破する。ここまでなら「表象がすべて」とするカントと同じである。その分かれ目は第二編第二章「意識現象が唯一の実在である」の次の一節にうかがえる。 

【 しかし意識は必ず誰かの意識でなければならぬというのは、単に意識には必ず統一がなければならぬというの意に過ぎない。もしこれ以上に所有者がなければならなぬとの考ならば、そは明らかに独断である。しかるにこの統一作用即ち統覚というのは、類似せる観念感情が中枢となって意識を統一するというまでであって、この意識統一の範囲なる者が、純粋経験の立場より見て、彼我の間に絶対的分別をなすことはできぬ。】 

私には、この文章の最後の部分「彼我の間に絶対的分別をなすことはできぬ。」という部分に合点がいかない。なぜここで「彼我」という言葉が出てくるのかということが問題である。「意識現象が唯一の実在である」と言った瞬間に、西田は独我論視点から世界を見ているのである。ここに「彼」の視点はない。独我論に徹することによって、「我」が剥落してしまったのである。この世界がすべて「我」の経験であれば、もはや「我」ということもできない。ただそれだけのことである。 

さらに、引用した箇所に続く文章について検討してみよう。 

【もし個人的意識において、昨日の意識と今日の意識とが独立の意識でありながら、その同一系統に属するの故を以て一つの意識と考えることができるならば、自他の意識の間にも同一の関係を見出すことができるであろう。】 

若干論理の飛躍が見受けられる。「意識現象が唯一の実在である」の意識には「他」の意識は含まれていないのだから、自他の意識の関係を云々することがおかしいのである。西田はカントを相当勉強したようだが、咀嚼しきれていない部分があるのだろう。 これを読んだ素朴な西田教の信者は、あなたも私も宇宙の中で融合してしまうという、手塚治虫のコスモゾーンのようなものを想像してしまうような気がする。

昨日の意識と今日の意識が同一系統に属するのは、どちらにも「『私は考える』ということが伴い得る」からである。ついでに言うと、カントはこの「私」を決して分かり切った明晰な概念としているわけではない。デカルトは「私は考える」から直ちに「私はある」を導き出したが、カントはそうは考えなかった。「私は考える」は「私は考えつつ私はある」と同じである、とカントは言う。「私は考える」という直観から「私」を分離することはできないと言うのである。つまり「私」そのものを直観することはできない。 

ただ、「私は考える」ということがすべての表象に伴い得ることから、日常的に使用している「私」という言葉で了解しあっていると想定されるものと超越論的統覚とが結びついていると考えることができる、そのことによってはじめて超越論的統覚が普遍性をもつのである。哲学を普遍的な「学」とするためのカントの工夫を、「善の研究」を書いた時点では、西田はまだ理解しきれていなかったような気がする。

里山ガーデン ( 横浜市緑区 )

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