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禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

大谷声明の衝撃と必ずしも楽観的ではない今後の推移

2024-03-26 09:54:05 | 雑感
 先ほど水原氏の賭博問題に関する大谷選手の声明を聞いたが、その内容に驚いている。それによれば、水原氏が大谷のあずかり知らぬところで彼の金を盗んだということになり、れっきとした窃盗である。しかも、大谷に対してはすぐばれてしまうような大ウソをついていたことになる。

 おそらく、日本人の多くは彼の釈明を聞いて胸をなでおろしたことだろう。彼が賭博にも違法な送金にもかかわっていないことがこれではっきりしたのだから。私もその一人である。私はてっきり彼が水原氏を助けるために借金の肩代わりをして上げたのだと思っていたのだが、あらためて彼自身の口から事実はそうではないということを聞いて安堵した。だが、客観的な事実を並べていくと彼の言い分は必ずしも受け入れやすい話ではない。それでも私が大谷のいうことを信じることができるのは、多分同じ日本人だからだろう。同じ文化的背景をもち同じ言葉を話す私たちは、これまでの大谷の野球に対するひたむきな態度や言動に触れてきて、彼が話す時の態度や表情から彼が嘘偽りを言っているのではないということを信じることができるのである。

 しかし、アメリカはご存じの様に多民族国家であり、日本人同士の腹芸などというものは到底通用しない社会である。特に、一介の通訳に過ぎない水原氏が彼の口座にどうしてアクセスできたのかということが最大の問題である。しかもその口座から大金が動かされたことにも当の本人が気づかない。普通はあり得ない話である。いずれこの件については詳しい弁明を迫られることになるだろう。Yahooアメリカでもこのニュースは流されているが、早速一般読者からはネガティブなコメントが山のように寄せられている。その中の数例をとりあげてみよう。

「大谷が通訳を通じてスポーツ賭博をしていたとしても驚かない。自分の銀行口座から450万ドルが引き出されたことを、彼が知らないわけがない。真実はいずれ明らかになるだろう。」

「大谷の弁護士が最初の通訳面接の後に扇動し、通訳が🎤に戻って180度変わった、大きな隠蔽工作を感じる。大谷はこの件に関して、ある意味汚い。」

「ピート・ローズにその質問をすれば、喜んでアドバイスをくれるだろう。」
 
ざっとこんな調子である。日本では大谷のニュースには礼賛的なコメントがほとんどで、否定的なものほとんどないが、かの地では普段でも肯定的なコメントは少なくネガティブなものの方が多いのだが、今回の件ではもうほとんどが非難の嵐状態である。これには多少人種差別的な要素があるだろう。大谷が英語で話さないということも一つの要因かも知れない。いずれにしろ、さらに詳しい事情説明は必要だと思う。

 3月23日の記事で私は「大谷は親しい友人と有能な通訳を同時に失ってしまった 」と述べたが、今日の会見で水原氏は初めから友人ではなかったということが分かってしまった。友人を窮地に追いやっておきながら、それを糊塗するためにすぐ分かるようなその場限りの嘘をつく、そんな友人は友人ではない。
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大谷は自分の口で真実を語る方がよい

2024-03-23 05:20:13 | 雑感
 MLBの大谷選手の通訳である水原氏がドジャーズから解雇された。その解雇理由がとても分かりにくい。「大谷選手の金を盗んだ。」と言っているようだが、どうも歯切れが悪いと言うか、説明が全然整合的でない。それよりは、開幕第一戦の後に水原氏が自ら告白した内容の方が自然で筋か通っている。つまり、水原氏が悪質なギャンブル詐欺に引っかかって莫大な借金を背負ってしまい、こわもての兄さんに返済を迫られて大谷に泣きついた。泣きつかれた大谷は仕方なく借金の肩代わりをして上げた。そういう話だろう。
 大谷としては善意で水谷氏を助けてあげただけの話だ。その話を聞いた球団関係者は目をむいた筈だ。大谷は善意のつもりでも、振り込んだ金は不正な取引による不正な金である。それを自らの手で振り込んだとなると、大谷自身がその不正取引の中の当事者になってしまう。ことは選手生命にかかわる重大な問題である。
 450万ドルと言えば人の一生を左右するような大金である。普通なら、誰にも相談せずにこっそりとすませてしまえる性格の話ではない。しかし、野球ばっかりやって来た純粋な若者には有り余る金をもっていたし、親しい友人の為にことを穏便に済ませたかったので、つい親切心で「今度だけですよ」と言いながら送金してしまったのだろう。

 これまでの大谷選手の言動から判断して、それはあくまで友人に対する純粋な親切心から出たことだと私個人は信じている。問題はそんな言い分がアメリカの法廷で通用するかどうかだろう。トジャーズ球団は何が何でも大谷の知らぬところで事が運んだということにしたいようだが、それは針の穴をラクダにくぐらせるような話である。そのような筋道の中で大谷に何を語らせようというのか、それともこれから後ずっと口をつぐんだままにさせようというのか? 私は大谷の一ファンとして、大谷自ら正直に本当の事情を語って欲しいと思う。大谷にはこれからもずっと大谷らしい大谷であってほしい。それは MVP やホームラン王をとることよりも重要なことである。

 この後事態はどのような展開を見せるか予断は許さないが、大谷は親しい友人と有能な通訳を同時に失ってしまったということだけは間違いない。
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笠置シヅ子に見る一流の矜持

2023-11-12 09:42:37 | 雑感
 私は昭和24年生まれの団塊の世代である。で、昨今の朝ドラで話題になっている笠置シヅ子さんのことは小学生の時分から知っていた。と言っても、歌手としてではなくあくまで俳優としてである。私の知っている笠置シヅ子は、お笑いドラマの三枚目的なわき役として起用されることが多かったように記憶している。そんなわけで、漠然と彼女のことを松竹新喜劇出身の人かなぐらいに思っていた。彼女が歌手であったこと、それも一世を風靡した大スターであった、ということを私が知ったのはずっとのちのことである。彼女が歌手を引退したのは昭和31年のこと、私が小学1年生の時である。まだ日本ではそれほどテレビも一般には普及していなかったし、私が彼女が歌手の現役である時代を知らなかったのも当然のことであった。が、私は俳優としての彼女を憶えているほどにはちょくちょくとテレビに出ていた。それほどの大スターならその辺の事情についてもう少し知っていても良さそうなものだが全然知らなかった。歌手の引退以後は公私にわたって鼻歌一つ歌うことはなかったと言われている。おそらく一流歌手としての彼女の誇りがそうさせたのであろう。

 歌手引退後の彼女は新たに俳優業を生業として生きていくことになるが、そのけじめとして各テレビ局や映画会社、興行会社を自ら訪れて次のように自ら申し出ている。(以下、太字部分はWikipediaより引用)
 「私はこれから一人で娘を育てていかなければならないのです。これまでの『スター・笠置シヅ子』のギャラでは皆さんに使ってもらえないから、どうぞ、ギャラを下げて下さい」
自らギャラの降格を申し出る芸能人がいるだろうか? これからは歌手「笠置シズ子」ではなく俳優「笠置シヅ子」として生きていくというけじめなのだろう。潔い処世であると思う。

 彼女と同時代に活躍した歌手として淡谷のり子も有名である。東洋音楽学校の声楽科を首席で卒業し「10年に一度のソプラノ」 と称されたほどの逸材である。朝ドラでは茨田りつ子 役となって、スズ子のステージを見て「とんでもなく下品ね」とだけつぶやき去っていく役どころである。淡谷はクラシック出身で笠置はジャズと芸風が全く正反対であるにもかかわらず、当時の軍国主義的な国家体制には双方ともに全く馴染まないという点で共通している所が興味深い。しかし、私はそんな淡谷の反体制的な芸風を大いに評価はするが、その一方で歌手淡谷のり子は全然評価する気にはなれないのである。

 というのは、私の彼女に対する印象は「歌のへたくそなただの威張ったおばさん」でしかないからである。若い頃はどれほどうまかったのかも知れないが、私がテレビを通じて彼女の歌を聞いた限りでは、全然声が出ていなかった。声量のない歌手はもはや歌手とは言えない。声帯も筋肉である以上、歳をとれば衰える。人によって個人差はあるが、50歳を越えれば筋肉の衰えは加速する。遅くとも60歳になるまでにはプロ歌手の看板は下ろすべきだと思う。歳をとっても昔を知っているファンにとっては、昔の歌声を重ねて聴くので懐メロ歌手としては通用するが、若い世代には通用しない。現在では五木ひろしや八代亜紀のように60どころか70歳を超えても現役を続けている歌手がいるが、年配ファンにとっては「年をとってもそれなりに味がある。さすがだ。」という風に聴けるかも知れないが、若い世代から見れば意味不明なしらける話でしかない。昨今の歌謡番組が盛り上がらないのはそういうところに原因があると私は見ている。そういう点から見ても笠置シヅ子の出処進退は見事なものだと思う。正真正銘の一流の証である。 
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意味は言葉をすり抜ける?

2023-07-30 20:27:04 | 雑感
  前回記事では私の表現方法がつたなくて、記事を読んでいただいた人になかなか意味が伝わらなかったような気がするので、もう少し言葉というものについて掘り下げてみたい。言葉はわたしたちの思考を支えるものであるから、無意識に使用できるほどのものでなくてはならない。いちいち吟味しながら言葉を選ばなくてはならないようでは用をなさないのである。つまり逆に言えば、あたかも「言葉=思考」のごとくであるかのように言葉を使用している。

 つまり言葉を発した時には、既にもうその言葉は発言者にとって自家薬籠中のものであり、いささかの迷いもなくその言葉を使用しているのである。受け手側もそのような前提に立って言葉を受け取る。だから、「大谷翔平はまた新たな金字塔を打ち建てた。」と言われても、「金字塔って何?」と話の腰を折ったりしない。状況から見て、大谷選手の偉業を形容する例えであることは間違いない、「金字塔」の中味というかもともとの意味はそのまま素通りして通用してしまうのである。(ちなみに「金字塔」とは「金」という字の形の塔すなわちピラミッドのことである。)プライドを傷つけられた場合に、「俺の沽券にかかわる。」というような言い方をすることがある。おそらくこの「沽券」の意味を知っている人は少ないだろうと思う。私も最近時代劇を見ていて初めて知ったのだが、江戸時代の土地の権利書のようなものらしい。しかし現代では誰も「沽券」の本来の意味を問題にする人はいない。

 言葉はその用途からして円滑に使用されなくてはならない。だから「金字塔」や「沽券」の中身は素通りして、使用された状況から自然に言葉の意味が生じてくるというような事情があるのだろう。それが「金字塔」や「沽券」のような具体物である場合であれば、それほど問題がないだろう。使用される局面が限定的であるからである。もともとの言葉が抽象概念であるときは少し問題があるように思う。以前も取り上げたことがあるが、「ダイナミック」とか「ナイーブ」などという外来語にはもともと原産国における確定した意味があるわけである。ところが日本で使用されたとたん、その「使用された状況」に応じて新たな「意味」が生じてくるのである。英語の dynamic や naive は日本語の「ダイナミック」や「ナイーブ」とは別の言葉だとしてしまってもよいが、英語を勉強した人からすればそれは納得しがたいのではなかろうか。

 dynamic は動的なものを形容する時に使用される。ところが日本語の「ダイナミック」はどうも「スケールが大きい」というような意味で使われている場合が散見される。例えば、岬の先端の高台から海を見つめながら「なんてダイナミックな水平線だ!」などと言ったりする。もしかしたら、その人は水平線を見て地球の力動を感じているのかも知れないが、普通は静止しているものに dynamic という言葉を使用することは適切ではない。 dynamic はダメだが「ダイナミック」ならいいではないかと言われれば悩ましいが‥‥。
 
 「ナイーブ」という言葉は「ダイナミック」より大きな問題を有しているように私には思える。ちなみに「ナイーブ」をコトバンクで 検索してみると次のような意味となっている。
  
① 人の性格、感じ方、考え方などが、生まれつきのままで素直なさま。純真。また、感じやすい性質であるさま。
② 事物に手のこんだ飾りや技巧がなく、単純なさま。素朴。

「純真」とか「素朴」は問題ないが、「感じやすい性質であるさま」の部分に非常に大きな問題がある。日本語のナイーブはそこのところ重点が置かれて「繊細な」という意味で使用される場合が多いように見受けられる。ところが英語の naive は純真や素朴の延長線上としての世間知らずや無神経や無知というネガティブなニュアンスが含まれている。"He is naive." と言われれば、「彼は繊細」どころか実は正反対の意味で言われていると解釈すべき場合が多いのである。テレビで発言するような人は英語に通じている人が多いので、「ナイーブ」を naive の意味で使用する場合が多いように見受けられる。しかしそれを「繊細な」と解釈すると意味的にはかなり違っているにもかかわらず文脈的には矛盾が生じないために、発言者の意図とは別の受け止め方がされていると思われる場合が生じる。そういう場合に私はとても居心地の悪さを感じるのである。
 
 自分の発する言葉については、(主観的には)常に言葉と意味は不可分に結びついている。またそうでなくてはわたしたちは滑らかに思考することもしゃべることも出来なくなるであろう。しかし言葉と意味の関係性を保障するものは実はどこにもないのである。言葉と意味に絶対的な関係性は無いという意味である。言葉は公共のものでありながら同時にその運用は常にある程度は恣意的なものとならざるを得ないという矛盾から逃れることはできないということである。この記事のタイトルを「意味は言葉をすり抜ける?」としたが、もしかしたら「言葉が意味をすり抜ける」のかも知れない。言葉は常に浮遊しているのである。

 レストランに行けば、ウエイターが「こちらハンバーグになります」と言う。私は思わず「何がハンバーグになるんですか?_」と訊ねたい衝動を飲み込む。実際に聞き返したりしたら、彼はけげんな顔をして「このじいさん一体何を言ってるんだ?」となるだろう。言葉とその意味を結びつける絶対的な関係というものは存在しない、にもかかわらず主観的には「言葉=意味」なのである。そういう意味において人は自分の言葉を疑うことが出来ない。そういうところから世代間、集団間の相互の言葉に対する違和感は必ず生じる。

 さて前回記事の「愛を愛を・・愛して・・」 に話題を戻そう。問題は「愛」がきわめて抽象的な概念であることである。何度も繰り返すが、人は自分の話す言葉は(無意識の内に)意味そのものであると信じている。だからいったん言葉を口にしたら、何かを言えた気分にはなる。しかし「愛」という言葉は抽象度の高い言葉である。色々な局面でいろいろな意味で使用されうる言葉である。ただ漠然と「愛を、愛を・・」と連発されると、私は「愛っていったいなに?」と問い返したくなる。これが、「ビフテキを、ビフテキを、ビフテキを食べたい。」というのなら話は分かる。その人はビフテキが好きでビフテキを渇望しているのだろう。しかし、「愛を、愛を・・」と「愛」という言葉に意識を集中すればするほど、その意味が分からなくなるような気がする。

 「彼のことを本当に愛していたのかどうか、今となってはよく分からない。」と言った人がいるとする。しかし、私はその人が「愛していた」という言葉をどういう意味で使用していたのかを先ず問題にすべきだと思う。抽象的な言葉は漠然と放たれていることがあるからである。学術用語などについて考えれば理解しやすいと思うが、一般に抽象的な言葉はできる限り限定的に使用することが望ましいということは言えると思う。

空青し 他郷の蝉も 同じ声 (御坊哲)
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「愛」が多すぎる?

2023-07-16 06:45:11 | 雑感
 「らんまん」は植物学者・牧野富太郎先生の伝記をもとにした物語である。私は毎朝NHKでこのドラマを見ている。 が、少し気になるのはその主題歌のことである。やたら「愛を愛を・・愛して・・」と「愛」が多過ぎるのだ。楽曲そのものは悪くない。才能のある人が作っているのだろう。だから私がつけるケチに対して反発を感じる人も多いかも知れない。しかし、実際にその歌を傾聴すればするほど「いったい何を歌っているのだ?」と言いたくなるほど意味が分からなくなり、連発される「愛」に対して反発したくなる。

 「愛」というのは本来の日本語つまり大和言葉ではない。もともとは仏教用語として伝来したものに対して、明治時代に "love" の翻訳語として転用されるようになったのである。仏教用語としての「愛」は愛欲すなわち煩悩の一種であり、歌に歌われるようなポジティブなニュアンスではない。一般に外来語は大和言葉のように実感の伴う言葉ではないので、それを使うとどうしても抽象的な話になってしまいがちなのである。難しい漢語やカタカナ言葉を多用した文章は、それなりになにか語っているように見えても実質的な意味に乏しい場合が多いのである。「あなたを愛しています」と手紙には書けても、直接面と向かって声に出して言うことは(普通は)できない。抽象的な外来語は手紙という実感から少し突き放した文語文には適用できても、直接相手に実感を伝える口語文には適用しづらいのである。

 件の主題歌では「愛を愛を」とまるでそれが掌にある具体物であるかのように謳っているが、もともと抽象概念をそのように扱うことに無理があるような気がする。ある意味、それはそれで何かを伝えようとして格闘しているともとれるが‥‥。まあ、所詮歌は歌である。なにもそんなしゃちこばった理屈で文句をつけんでもええやないか、と言われればその通りである。

スターバックス1号店前で(記事本文とは関係ありません)
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