クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

お菊の祠・熊倉山からポイントラリー H-19-1-18

2007-01-18 21:13:42 | 高崎・甘楽・藤岡方面
今日は甘楽の里山でポヶナビ使っての熊倉山からのポイントラリー遊び。
国土院の地形図では熊倉山西から轟への道は記載されていないが、
甘楽町発行の1/25000地図には、はっきり破線が書かれている
ので其処を辿ることにした。
往路は序での事に「お菊の祠」に寄る事にして甘楽町・宝積寺に急ぐ。
寺の前を通過して天狗山登山口への林道を登る。昨年この道は大工事を
やっていたので心配したが工事中の看板は見当らない。約1.6kで
舗装が終るので先の状況も不明である事から昨年工事小屋が設置されて
いた跡の空き地に駐車。道は整備されているのでもっと上までと思ったが
帰りのコースがかなり下に出る見込みなので余り上には行けない。

いよいよお菊の祠に向けてスタート10.36。標高429m地点。
直ぐに最初の分岐、直進は「神戸」まで繋げるというがまだまだ削った
だけの道。

周囲が伐採されているので北側の展望は抜群。やがて新しい工事事務所を
通過すると又、分岐で工事は右へ進んでいる(10.45)。左折すると
「桜の広場」だが、ここからは昔の道の侭。やがて天狗山との分岐
(10.52)、ここは直進。

杉林の中を進むが、両サイドは綺麗に伐採されている。何れ工事が始まる
のかもしれない。
この道は将来スーパー林道まで繋がるとの噂を聞いた事もある。

間も無く分岐に懐かしい錆びだらけの「菊ヶ池」看板をみるが、到着まで
分岐毎に5箇所も付けられていた。
(10.59)
大きな蛇行道が始まった。一辺が長く中々距離を稼げないのでイライラ。
突然、霧が濃くなって周囲の山が見えなくなった。気温が上がって昨日の
雨の水分が蒸発しているのか?
三つ目の道標を過ぎると右は杉、左は檜になるが手入れはされておらず
薄暗く(11.17)
下も雪混じりで歩き難くなる。四つ目道標で林道は終って山手に入る。
直ぐに道標によって切り返して右の細道へ。ここの標高636m。

斜面を斜めに登って一旦東に向かい、大きく尾根を跨いで暗い林間を
北側に進むようになる。林を抜けると左手に小屋風なもの、「お菊の祠」
に到着である。(11.40-12.06)
この地点はN-36-11-53-7 E-138-54-53-0 
標高708m。

道は其のまま通り抜けているので多分逆から来る道もある筈。
祠の中はこんな感じ。

神妙にお参りも欠かさない。

さて、今度は熊倉山に突貫だ。祠自体が小尾根の上にあるので、ここから
直接、登り上げれば熊倉山に達する筈。ナビに電源を入れスタート。
直ぐにブルーのビニール紐を発見、誰かが辿ったと思うと気が楽になる。

撤退のことも考えて念の為に此方も赤テープ。
雑木の尾根はかなりの急登、標高794mコブがあるからだ。2つ目のコブを
乗り切ると(13.31)標高815m
南南西への綺麗な尾根、遥か彼方に巨大ピーク、多分あれが熊倉山。
頂上直下に来るとピークは物凄いトンガリ。休憩の後、雑木に掴まり
ながら少しづつ進む。高々標高差70m程なのに見上げると如何にも凄い。
半凍結のようだが、今日から防水完備の新品の登山靴を使っている
のでエッジングが良く利き軽アイゼンの出番は無い。何とか這い
上がると目の前に倒れた石柱、少し西進すると枯葉に埋もれた
可哀想な三角点896m(12.50-13.14)。点名は「雉平」。

寂しい頂上には標識も無いので早速に製作道具をザックから出して
頂上標識造りや昼食。

写真を撮ってからラリーの開始。先ず下山口は三角点から西南205mに
ポイントしてある。
丁度其処は杉幼木の植林地との境目。植林地に沿って北への緩斜面を
下ると樹幹に赤ペンキ。

人の手が入った気配があると不思議に安心出来る。(13.22)
斜面の向きによるのか雪が多い。

一段下の尾根に移ると何やら石柱、何か踏み跡が在るような気がするが
雪で良く判らない。
次ぎのポイントはやや西北に向かって702mを目指す。そこから
東北進するのだ。ピークと言っても稜線の高度が高いので唯の丘、変わった
石柱を発見したりしてうっかり通り過ぎ、

慌てて引き返すと東の沢に作業道が見えたので降り立つ。極めて悪路、
作業道なのか、枯れ沢に落ち葉が堆積したのか良く判らないが、兎に角
それを辿って進む。倒木も在り厄介な道。
次ぎのポイントは大きく西へ進んで再び戻る蛇行道、面倒くさいから
ポイント二つ飛ばして林の中をショートカット。ここらがナビ遊びの
醍醐味。
今度は本格的な作業道を進むと、林道にぶつかった。角には見なれた
「菊ヶ池」看板、
この地点、N-36-12-06-6 E-138-54-32-0 
で標高452m。

右折すると多分直接に祠まで行けるのだろう。(14.46)
左折して少し行くと堰堤が見えた。

看板には「水源林機能回復事業」とある。「水越沢」と言うらしい。
僅かの距離で天狗山への林道に到着(15.01)。傍に東屋がある。

何たる事か、
寺から僅かの距離だ。ここから登り一方の帰着は辛い。約1.2kの林道を
フウフウ言いながら駐車場所に着いたのが15.23。
下りで2時間とは掛かり過ぎ。
萩原進氏編の「群馬の墓巡り」に依ると妙義町にも同じ小幡氏とお菊の
伝説があり、妙義町消防分署前にも「菊女之墓所」と刻まれた
石碑があるそうだ。隣に「菊女父母」という石碑もある念の入れ方とか。

帰途には折角だから織田家七代の墓に寄って見た。その内三体は破損が
激しいが研究により確定されているとか。初代の信長次男・信雄は駿河
百万石から小田原攻めの後、家康旧領への転封を拒否して左遷され、後に
大和に所領を持っていて京都・大徳寺にも墓所がある。小幡は茶料地だから
信雄自身がこの地に居住していたとは考えられない。
国峰城の大手の構えであった小幡城に拠って治世し、小幡から福島間の
松並木、日本名水百選の雄川堤、平成十四年から十年計画で再現工事中の
楽山園など「信雄が…」と説明されているが、京好みの信雄が
ここに腰を据えたとは思えない。「織田氏治世」の間にと言う事だろう。
初期の菩提寺は宝積寺。後年、小幡を四男の2代目・信良に譲ったとの
記録がある上に、福島の仮陣屋から小幡に陣屋が移されたのは三代目信昌
のときであるので全て「信雄が…」と言うのは如何なものだろう。
其の子孫は1767年、8代目の時、山縣大弐の明和事件に連座して
出羽転封になって現地で没したので小幡の墓は七代まで。
隠居領の大和を継いだ五男の信高の子孫も不祥事で丹波へ転封に
なっている。

この明和事件の山縣大弐は武田の武将・山縣昌景の子孫の一人だったので
同じ昌景の末裔とされる高崎・山縣の中には家紋の桔梗紋こそ変えなかったが、
一時期、姓を「山形」にした形跡がある。


無名峠の標識取外しは別の機会にする。

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