
先日、「牛伏山岳会」氏が顧問を連れて箕郷城址に行った記事を見て、
此方も真似して城址巡り、手始めは資料が少ない甘楽の峰城。
小幡氏と言うと直ぐに「国峰城」に飛んでしまう。
一般の地図にも記載は無く、国土院の地形図に僅かに三角点印があるのみ。
午後も天気が良いのを見越して出発。
46号線で小幡の町を抜け、雄川沿いに進むと「戦場」に差し掛かる。
これは「センバ」と読むらしい。この辺から道幅は狭くセンターラインも
無くなる。
間も無く「梅ノ木平」辺で右に切り返して山手に登る狭い舗装道発見。
車一台の巾、山の斜面をクネクネと回りながらの急坂。ヘアピンカーブ
が多くて爺イの運転技量では限度ギリギリ。不思議にこの斜面には張り
つく様に集落が続く。「峰」という地域らしい。やがて「峰城址0.7k」
の看板発見。(12.12)

ここから山道なので路傍に駐車、今度は目印とした「峰峠」を目指して
歩き出す。
直線距離は僅かに350mだが標高差が151mなのでこの蛇行道も
登りはキツイ。未だ、残雪もあつて要注意。

大きく蛇行を繰り返すと右手の頂に城跡の雰囲気があるが、取り付き
個所が見付らないうちに峠に着いてしまった。この峠から先は
もう下仁田町(12.34)。
峠には標識も無いが、大きな石碑が一つ。碑文は読めないが
「文化十五年」とある。ハテハテ、「文化」は十四年までなのに。
まあ、次ぎの「文政元年1818年」か?

右の山手への登り口を探しながら峠を2百㍍降りると広場、ここで漸く
ナビが衛星を捉えたら170mの行き過ぎ。仕方なく得意技で尾根への
藪を突破して登り上げ稜線を逆戻り。

城跡らしい掘り切りや二段の曲輪を乗り切ると漸く東西に長い頂上広場
(12.55-13.25)。
雑木が綺麗に伐採されている東端に石宮が三つ。城址の看板は無い。


(山崎一・群馬県古城塁の研究より)図面借用。

軽食と休憩後、三角点を探すと西端の草叢に寂しく二等三角点ともう
一つの石柱。点名は城山、662.2m。

西南への踏み跡が一本あつたが、下仁田側に行きそうなので帰途は東に
進んで石像群を左に見て、

掘り切りを下ると、何と木段が設置されていて掘り切りが其のまま
道になっている。此方が正規の登山道だったと悟る。僅かの下りで峠道。
道標がちゃんと付けられていた。峠より百㍍下のヘアピンカーブの位置。
往路では勾配急のカーブなので下ばかり見て歩いたので見落としたらしい。
秋畑地区には「峰城址保存会」があると聞くので入り口の道標も
本丸跡の伐採もこの木段も関係者のボランティア活動の成果であろう。
少し脇道などを探索しながらブラブラとのんびり登山口、気がついたら
ここに古道標。「右梅ノ木平・左矢ノ口入山」と彫られているが、本当の
古道標なら「梅ノ木平道」と下に「みち」が付く筈なので、これは余り
古いものではない(13.53)。

再び、緊張の連続でハンドルを握り、途中で庚申塚のような石像物を
見ながら山を下り、

次ぎの予定の「国峰城址」に行くため小幡に戻った。
(峰城址のあれこれ)
「上野国郡村誌」・「村北字峰の山上にあり村人これを城山と呼ぶ。
城主詳ならず」「廃城略説」・「秋畑村の東北にあり国峰と相距ること
遠からず。信玄正に箕輪を攻めんとす。小幡信貞を召して問て曰く
小幡図書の峰城を取て然る後に進まんとす。
如何にしてこれを取るへき、汝試にこれを策せよと」
「秋畑村口碑」・「峰という古城の跡なり、眼下に国峰城を見下ろす。
按ずるに祖・重定公より両城主たり。全く始は峰にして後、国峰に
遷営ありし故、古書もかく区区なり」
「北甘楽郡誌」・「小幡憲景は国峰の城主にして秋畑山に支城を築き、
これを峰の城と言う」
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此方も真似して城址巡り、手始めは資料が少ない甘楽の峰城。
小幡氏と言うと直ぐに「国峰城」に飛んでしまう。
一般の地図にも記載は無く、国土院の地形図に僅かに三角点印があるのみ。
午後も天気が良いのを見越して出発。
46号線で小幡の町を抜け、雄川沿いに進むと「戦場」に差し掛かる。
これは「センバ」と読むらしい。この辺から道幅は狭くセンターラインも
無くなる。
間も無く「梅ノ木平」辺で右に切り返して山手に登る狭い舗装道発見。
車一台の巾、山の斜面をクネクネと回りながらの急坂。ヘアピンカーブ
が多くて爺イの運転技量では限度ギリギリ。不思議にこの斜面には張り
つく様に集落が続く。「峰」という地域らしい。やがて「峰城址0.7k」
の看板発見。(12.12)

ここから山道なので路傍に駐車、今度は目印とした「峰峠」を目指して
歩き出す。
直線距離は僅かに350mだが標高差が151mなのでこの蛇行道も
登りはキツイ。未だ、残雪もあつて要注意。

大きく蛇行を繰り返すと右手の頂に城跡の雰囲気があるが、取り付き
個所が見付らないうちに峠に着いてしまった。この峠から先は
もう下仁田町(12.34)。
峠には標識も無いが、大きな石碑が一つ。碑文は読めないが
「文化十五年」とある。ハテハテ、「文化」は十四年までなのに。
まあ、次ぎの「文政元年1818年」か?

右の山手への登り口を探しながら峠を2百㍍降りると広場、ここで漸く
ナビが衛星を捉えたら170mの行き過ぎ。仕方なく得意技で尾根への
藪を突破して登り上げ稜線を逆戻り。

城跡らしい掘り切りや二段の曲輪を乗り切ると漸く東西に長い頂上広場
(12.55-13.25)。
雑木が綺麗に伐採されている東端に石宮が三つ。城址の看板は無い。


(山崎一・群馬県古城塁の研究より)図面借用。

軽食と休憩後、三角点を探すと西端の草叢に寂しく二等三角点ともう
一つの石柱。点名は城山、662.2m。

西南への踏み跡が一本あつたが、下仁田側に行きそうなので帰途は東に
進んで石像群を左に見て、

掘り切りを下ると、何と木段が設置されていて掘り切りが其のまま
道になっている。此方が正規の登山道だったと悟る。僅かの下りで峠道。
道標がちゃんと付けられていた。峠より百㍍下のヘアピンカーブの位置。
往路では勾配急のカーブなので下ばかり見て歩いたので見落としたらしい。
秋畑地区には「峰城址保存会」があると聞くので入り口の道標も
本丸跡の伐採もこの木段も関係者のボランティア活動の成果であろう。
少し脇道などを探索しながらブラブラとのんびり登山口、気がついたら
ここに古道標。「右梅ノ木平・左矢ノ口入山」と彫られているが、本当の
古道標なら「梅ノ木平道」と下に「みち」が付く筈なので、これは余り
古いものではない(13.53)。

再び、緊張の連続でハンドルを握り、途中で庚申塚のような石像物を
見ながら山を下り、

次ぎの予定の「国峰城址」に行くため小幡に戻った。
(峰城址のあれこれ)
「上野国郡村誌」・「村北字峰の山上にあり村人これを城山と呼ぶ。
城主詳ならず」「廃城略説」・「秋畑村の東北にあり国峰と相距ること
遠からず。信玄正に箕輪を攻めんとす。小幡信貞を召して問て曰く
小幡図書の峰城を取て然る後に進まんとす。
如何にしてこれを取るへき、汝試にこれを策せよと」
「秋畑村口碑」・「峰という古城の跡なり、眼下に国峰城を見下ろす。
按ずるに祖・重定公より両城主たり。全く始は峰にして後、国峰に
遷営ありし故、古書もかく区区なり」
「北甘楽郡誌」・「小幡憲景は国峰の城主にして秋畑山に支城を築き、
これを峰の城と言う」
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