クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

続・神成山ハイキング H-19-2-18

2007-02-18 17:40:42 | 妙義・下仁田・富岡・南牧
雨の日曜日、昨日歩いたところの再チェック。
(1) 宮崎公園の事

宮崎地区は宮崎城の大手門の前に発達した城下町が元になって、江戸時代
には絹と麻の市が盛んな市場町として栄えたそうだ。大手門とは現在の
西中学の東にある乗願寺辺りとの事。
この城町に江戸末期から明治にかけて栄えた大富豪の「鈴木家」があった。
当時の群馬では「一に加部(吾妻)ニに佐羽(桐生)三に鈴木(富岡)」
と言われた三大富豪の一角であったと云う。この鈴木家の豪華な庭園で
あった「稲荷山」を富岡市が譲り受け、市は公園として市民に開放して
いる。丘の南面の複雑な地形を利用してツツジ、アヤメ、アジサイなどが
森や岩山の間に配置され、往時の鈴木家の豪壮振りが偲ばれる。
(上州の史話と伝説より)
尚、園内にある重文の「茂木氏邸宅」は元々は神農原にあったものを、
1970年の重文指定を機に解体して移設したと言う。説明板に
1527年建設のものと書いてあるのに見た目には凄く新しく見える
のは、江戸時代に三回、それ以後も三回の解体・修復を重ねている
からである。残念ながら1527年説の出所は当家が「かっての
修復の際、1527年建築と言う墨書が納戸の大根太にあった」
と主張している事から来ているが、それを証明する決定的証拠は出て
いないらしい。専門家は何代もの修復跡などを総じて、十七世紀中盤
以降のものとしているとの事。


(2) 宮崎城の事
宮崎の西方、旧甘楽道(下仁田道)の信州との出入り口である和美・
内山・余地の各峠を抑える根拠地として重要であった。乗願寺辺りを
城谷といい、ここからを城内として西に展開して櫓跡西端まで。
宮崎公園がイコール城址ではない。
城の用水は大桁山から引いたと伝えられている。

小幡氏は西上州での名門で足利・上杉に臣従してきたが1560年、
謙信と小幡図書に国峰城を奪われて信玄を頼り以後は武田の先鋒。
翌年、信玄の西上州進出を阻んできた長野業政が没すると1566年に
武田は西上州を席巻し安中・松井田・箕輪各城が落ち、長野氏の滅亡で
甘楽一帯が武田の支配下となる。
1582年、武田が滅んで武州・上州が滝川一益に従ったのも
束の間、信長の死によって一益は遁走、上州は北条の旗が立てられる。
当時の頭領はお菊事件でも有名な小幡信貞、嫡男の信秀を主城・国峰城に
配し、支城の宮崎城には小幡左右衛門・同彦三郎を充てて
小田原詰め。1590年、全国統一一歩前の秀吉が北条攻めを開始。
参戦する前田・上杉の北陸勢を迎え撃ち松井田城の後詰めの役割を
担ったが、松井田城が藤田信吉の策謀で牒略されて小幡勢も蹂躙
される。支配者は家康の関東入りで奥平氏に替わるが、1601年に
奥平氏が美濃に転封になって廃城。
その後の小幡は織田信雄の一統。
現在の西中学辺を中心とした平城。神成城が要害城で此方は里城の位置付け。
西方1㌔の神成城と併せて一体と見た方が適当なようで、搦め手からの
神成への通路が昨日歩いた尾根伝いのハイキングコースであろう。


(3) 神成城の事
昨日歩いた三角点峰の東200mの「神成城址」という看板がある所が本丸跡らしい。

何かないかと随分探したが遺構らしきものは発見出来なかったが、尾根の
派出には築城の跡があるそうである。記録では三角点峰には工事跡が認め
られるものの、1箇所も掘り切りもないので「物見台」程度らしい。
それよりも城跡東の小ピークの巻きがあつたが其処も物見台だったらしい。
記録には「主正面を丹生谷に向け碓氷口を扼す」とあるから北に向かって
守りを固めた城。


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6 コメント

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Unknown (かんなり)
2009-08-25 14:29:17
神成城についてもう少し情報をいただけたら幸いです。
返信する
RE:神成城 (爺イ)
2009-08-27 16:37:22
神成城に関する資料は少ないので余り情報は持っていません。一番詳しいのは勿論、山崎一著の「群馬県古城塁址の研究下巻」のP-156~P-157です。
城の縄張りの詳細に関してはこのページをご覧下さい。各市図書館にはある筈です。
神成城は単なる狼煙台とも言われますが、東にある宮崎城の詰城というのが
定説のようです。小幡氏の本城は国峰城、其の支城が宮崎城、そして宮崎城の詰城が神成城ですから小幡・国峰の孫城みたいな存在だったのは本ブログの通り。
「群馬県北甘楽郡史」では神成城という表現は出て来ません。多くの資料と
同様に宮崎城を里城として詰城を併せて1セットとして扱っているからです。
詰城(要害城)とは平時の生活は営まれず、敵に攻撃されるとかの有事の際に
立て篭もる城の事です。従って甘楽郡史では「宮崎城から西へ登り行く事廿町に本丸跡ありーー」としてそれ以下で自然に今の神成城の記述に移っています。
と、すれば神成は間違いなく小幡累代の領域と言えます。
1575年の長篠の戦いで小幡軍出征兵士は武田に殉じて殆ど全滅、1582年に
勝頼が天目山麓で虐殺されるとほんの一瞬だけ治めた滝川一益も信長の死去により形式的に一戦してさっさと遁走。その後は後北条の支配。
しかし、1590年の秀吉の小田原攻めに呼応した前田・上杉に蹂躙されて小幡氏滅亡。
家康の関東入りで奥平氏の支配になるが奥平氏はかって徳川方として長篠城に篭って武田の猛攻に耐え抜き、信長・家康連合軍を大勝に導いた功労者ですから、其の戦いで多くの縁者を失った地元民や戦後に帰農した元・小幡武士たちの心中はかっての敵将を領主に迎えて複雑だったでしょう。
但し、奥平氏の祖は小幡氏とその祖を同じくしている因縁もある。織田信雄は奥平の転封の後の事。
甘楽郡史に下記の記述があります。「小幡図書景定 上野国甘楽郡宇田城主後住於神成下総国討死(此の人の子孫神成氏と称せりと何かの書に記したるを見たことあり。しかして今同村に神成を氏とするもの村の西にありという)」
この記述は山崎一氏の著書にもそのまま引用されていますが、これは一端を
書いているに過ぎないので全体的には国峰城・宮崎城・神成城を含めて甘楽一帯の諸城・諸砦は個々の動きではなく連帯して盛衰したと思われます。
尚、宮崎城は旧一ノ宮町、神成城の辺は旧丹生村や旧吉田村字神成にまたがつて居ます。
小幡関連・長野氏関連の歴史小説も大方、長野氏滅亡で終わっていて
その後の甘楽を舞台にしたものには出合っていないので、巷説すらも手に入れられないのが現状で、神成城の盛衰の詳細は良く判りません。

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神成城の件 (南武)
2009-12-20 13:29:33
昨12/16、永隣寺脇の大手から登城し、地形図と撮影写真を見比べて、迷っています。つきましては、地元に詳しい登城経験者に教えていただきたく投稿しました。
①掲載の縄張図も現地で見比べたのですが、北尾根は「神成山」と表示がある小山でしょうか?途中まで行きましたが、遺構が見つからず引き返しました。
②主郭から三角点に行きかけたのですが、岩場が急なため断念しました。危なくないのでしょうか?

返信する
RE:神成城址 (爺イ)
2009-12-22 12:15:20
南武さん コメント有難う御座いました。
神成山へは北の永隣地区の林道利用では行った事が無いので良く判りませんが、西中学から新堀神社に抜ける
ハイキングコースですら五つのピークを辿る険しさがあるので、厳しい登路
と想定できます。
神成城址は城と言うより、あくまで
宮崎城の詰城なので遺構も判りにくいのですが、この道の専門家である
富岡武蔵さんの
http://myhome.cururu.jp/jyousyu/blog/article/41002726641
をご覧下さい。
返信する
神成城址 (南武)
2009-12-22 14:58:48
爺イさん、ご回答ありがとうございます。
登路の状況判りました。また、富岡武蔵さんの
ブログも参考になりました。取り急ぎお礼まで。
返信する
富岡武蔵さん (爺イ)
2011-04-23 09:43:57
富岡武蔵さんのブログは下記に移転しています。
http://tomioka.at.webry.info/

http://www.blogmura.com/profile/00260371.html
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