クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

井野川周辺散策 H-25- 1- 21

2013-01-22 11:48:48 | その他

漸く風も収まったが明日は肺機能検査があるので控えめにして井野川の
遊歩道の散歩で我慢。
浜川運動公園の東端駐車場に車を置き、散策に出発。冬景色の公園内は
数人のウォーキングの人を除いてはひっそり。



北側の遊歩道に向かって東屋の脇を通過。



井野川は凍結していないが護岸のコンクリート壁に残雪がへばりついていて
如何にも冷たそう。



数羽の俊敏な小鳥が飛び交っている。若しかするとカワセミかとも期待したが
青い宝石と言われる華麗な体毛は見えなく白黒基調なので多分セグロセキレイ。
だが、市街地の駐車場などで良く見かけるセキレイより随分と大きい感じ。





そんなのを見ながら遊歩道を進むと前方に北高校が見えた。右にはゴルフ練習場、
こんな時間から多くの人が白球を打つ音が響いてくる。



車道を横切って校舎前を通過すると川幅はやや狭くなり、流れの緩い所に鴨の群れ。



やがて北高野球グランドの反対側に養護施設が二棟。やがては爺イもこんな所の
お世話になる時期が来る。



又、車道を横切り一旦左岸に渡ると土手にはしだれ桜の並木。



右手が開けて赤城の姿。まだ雪は少ない様だ。



すぐ近くに長野業盛の墓所がある。



ここはあくまで「伝」が付くが一応は高崎市指定史跡に指定されている。



全体はこんな形。



業盛辞世の歌の碑文。



長野業盛(1546年- 1566)年は戦国時代の武将・長野業政の第二子、極楽院鎮良はその嫡男。

父の死後、1566年に武田信玄に2万の大軍で攻め込まれ、箕輪衆を率いて懸命に抗戦したが、
衆寡敵せず敗れて9月29日、本丸の北側にある御前曲輪の持仏堂で一族郎党と供に自害した。
享年19。遺骸は哀れに思った大円寺の僧「法如」らが、遺骸をこの井出の地に葬ったと
伝えられる。辞世は「春風に梅も桜も散り果てて名のみぞ残る箕輪の山里」

尚、業盛の子・亀寿丸(2歳)は、家臣に抱かれて落ち延びて、城の南1里半にある寺・
和田山極楽院に匿われたという。のちに出家して鎮良と名乗り、極楽院2代目の院主となった。
幕末の大老・井伊直弼の師とされる長野主膳は業盛の子孫といわれるが定かではないとか。
この件はかって探索したことがあるのでお暇の節にはこちらもどうぞ。
http://blog.goo.ne.jp/gooyamachuu/e/c02cfedcadf714d9be79c47b656fb6ba
http://blog.goo.ne.jp/gooyamachuu/e/7eab06f7a56de034cc220d2be36b649a

さて、参拝を終わってから分岐まで引き返すのも面倒なのでこんな渡し場を
つかつて再び右岸へ戻る。



右手には保渡田古墳群の一つの二子山古墳が見えるが肝心の八幡塚古墳は樹木の陰。



三回目の車道に出た所で5000歩に達したので重機会社脇で左旋回して周回に入る。
日本装弾k.kの正門を過ぎて南進し井野川支流に突き当たって野球グランド南に
たどり着く。
途中の日当たりの悪い歩道がテラテラに凍結。



又、鴨の群れ。



そしてセグロセキレイ。



やがて、運動公園西端のサッカー場。芝生のないベアグランド。



隣の陸上競技場は3月までの工期で修復工事中。



体育館前を通過して公園内に。



初夏には花で一杯の御布呂ヶ池も冬景色。



ここには越冬鴨が多数集まっていて見物客や大きな三脚を構えた撮影者たちが
ちらほら。





MVI_6746.AVI


突然、群れが一斉に北岸の橋を目指して水の上を滑っていく。どうやら橋の上から
誰かが餌を撒いているらしい。こんな所の餌付けが越冬鴨になる原因かな?
撮影者も諦めて東屋に屯している。



こちらも再スタート、隣の遊具類には人気なし。



出だしと同じこんな風景の中を駐車場に戻った。9500歩。



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