クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

高崎市内 ジイ散歩 H-20-7-4

2008-07-05 14:45:41 | 伝説・史跡探訪
梅雨の真最中、晴間があっても午後の雷雨が危ない。
そこで足慣らしを兼ねての「ジイ散歩」で町名由来を尋ねて市内の探訪。
伝説史跡巡りも双神道祖神も道しるべも一通り終わっているので、テレビ朝日の
「ちい散歩」に対抗して勝手な命名。
種本は「田島武夫著・高崎の町名由来」「田島桂男著・たかさき町知るべ」と
爺イの歴史メモ。
平成の大合併の前の旧市の時代、町の数は158、爺イが高崎に転居した
S-45年時点では141町だった。勿論、区画の進んだ九つの町で00丁目というのが
出来たからそれらを1町として加算すると181町にもなるが。
ところで、こんな沢山の町名が密集しているのに町を歩いても走行しても
町名標示が無い。唯一、「交叉点名」の道標がその代用をしているが
00町東・西・南・北等の標示を除く其のものズバリの町名のある交叉点名は
約70個所に過ぎない。それも殆ど、国道・県道沿線、例外として
細道でも何か車の集まる公共施設・ホテル等のある付近に限られている。
平成の大合併は旧榛名町(16)、旧倉淵(5)、旧箕郷(14)、旧群馬町(18)
新町(1)で54町の増加。

そこで写真の撮れた町名分の市内探訪。
(1)和田町


驚いた事に高崎にとって由緒ある「和田」の名が町名になったのは実に
昭和48年の事。勿論「上和田」「下和田」はあつたが。
元の町名は「新喜(アラキ)町」、これは「間部詮房」城主時代の1712年の
誕生なので歴史のある名だった。区画整理で新喜町に南町と下和田の
一部を加えて誕生。
遠い昔の1213年、義時に挑発されて兵を動かした「和田義盛」は
「和田合戦」で一族を殲滅されるが、生き残り(六男又はその子、或いは
八男と諸説あり)が逃れたのが現箕郷地区の「和田山」、推定1230年頃
当時の「赤坂庄」に移ってそこを「和田」と命名。時代は下って1590年の
秀吉の小田原攻めで北條騎下の「和田氏」は滅亡。家康の関東入りで
箕輪12万石城主になった「井伊直政」が1598年に和田に移転して
始めて「高崎」誕生。「新喜(アラキ)」とは村を興した「荒木某」の名から。

(2)田町


「直政」の高崎移転で連雀町・鞘町・紺屋町等と一緒に箕輪から移った町。
箕輪時代は「田宿」、移転後も暫らくは「田坊」。中山道の道筋で問屋町と
して隆盛。「お江戸見たけりャ高崎田町 紺の暖簾がひらひらと」と
言われたのは直政から七代目の松平重長時代の1621年以降。
「三伝馬」の一角を占めるようになったのは、1602年に本町・椿町・
九蔵町・北通町と抜けていた中山道が一本西の田町を通るように
なってから。
因みに1604年に伊井家が関ヶ原の戦功で彦根に加増転封されると
二代目は酒井家次。例の家康嫡男・信康の武田への内通疑惑の時、
信長への釈明使者を努めながら疑惑を否定せず、信康を切腹に追いこんだ
酒井忠次の嫡男。その酒井氏も1614年に越後高田へ移る。
その後釜は松平康長、信吉・重信・重長と繋ぐも1657年から安藤重博、
1695年、再び松平が戻って通称・右京殿の爺イご贔屓「輝貞」。
何でご贔屓かといえば爺イがかつて榛名山麓の「右京の無駄掘り」跡を
発見して標識を付けたと云う全く個人的・勝手連的な理由。
輝貞殿、高崎の領民の為に粉骨砕身するも余りに綱吉に重用され
過ぎたため、家宣政権に代わると村上に左遷。跡に間部詮房が入りこむ。
だが、吉宗時代の改革で輝貞は1717年に復帰、以来幕末まで天領
としての松平の治世が続く。

(3)九蔵町


酒井家次城主時代の1615年、豊臣根絶やしを図った狡猾・家康は
浅慮・淀君を追いこんで戦国最後の大決戦・大阪夏の陣を仕掛ける。
その時に家次は町民から反町・梶山・須藤・北爪の四人を従軍させた。
戦後、中でも戦功の高かった北爪九蔵への褒賞として町一つを与える。
その九蔵が拝領した町をその名をとつて現・九蔵町。
久蔵は1601年頃から居住し、大阪出陣時には既に町名主、出陣は
1614年の冬の陣とする説もある。
明治八年には県内初の銀行・第二国立銀行高崎支店がこの町に、更に
昭和六年に高崎商工会議所が出来るなど、金融・商業の中心だった。
戦時疎開の延長で昭和25年頃、爺イもこの町に居住。

(4)あら町


県内、県外を問わず平仮名の地名も珍しくなくなったが、元の町名は
「新町(アラマチ)」、多野郡新町が高崎と合併するとき、紛らわしいので
「あら町」としたそうである。最初は交叉点名の事だけと思ったら町名まで
新規参入町に譲っている。発祥は和田時代からと古く「金井宿」「馬上宿」の
他に「新しく出来た町」で「新町」、高崎最古の町とも云える。
井伊時代から伝馬の町とされ「いかだ場河岸」を持つ本町に対して
聖石河岸を持っていた。始めは「シンマチ」だつたらしいが、羅漢町の
東に藩の組屋敷のある「真町」があつたので「アラマチ」と呼称を
変更したとの事。
一方の「真町」も最初は「新町シンマチ」だつたが文字標示が「アラマチ」
と同じになるので「真町シンチョウ」。
駅前通りの拡張は昭和32年だが平成9年のシンフォニーロードの完成で
一変している。江戸期の鎮守だった諏訪神社は四つ角付近にひっそりと。

(5)堰代(せきしろ)町


赤坂町と柳川町に挟まれた小さな町。高崎神社入り口交叉点の道標が
無ければ全く目立たない。明治六年の誕生。
水の重要性は古今を問わないが、その用水の管理を担当した「堰方役人」
の居た「堰方長屋」と城代組屋舗の在った所。
その「堰」と「代」を組み合わせて堰代町。
明治四十年に改称されるまで現・高崎神社の旧名は「熊野神社」て江戸時代から
通称「オクマンサマ」、尤も全国の熊野神社の通称が「オクマンサマ」だが。

(6)本町(もとまち)


その名の通り和田宿の時代から高崎城下の町割の「根本」、点在する
二つの宿場を移して本町(モトマチ)を開いたとの事。烏川のいかだ場を
持ち、水運の便も握っていたらしい。中山道の街道筋。
この町の不思議は昔から本町一丁目、二町目、三丁目と言い慣らされ
て居たのでそれが夫々町名かと思っていたが町名としては「本町」の一本。
片岡・下和田・城山・問屋・中居・東貝沢・緑・八千代は00丁目で夫々町名。
太田・桐生・館林・伊勢崎では同じ字で「ほんちょう」、前橋・藪塚は「ほんまち」。
田町・新町と共に「高崎三伝馬」の一端を担い月の上旬に「本町上番」。

(7)嘉多町


本町の南でたった1区画の巾で東は九蔵町、西は堰代に接する細長い
町並。かつて本町に属し、通りの北の片側に組屋敷があったので元は「片町」、
「嘉よろこび」が「多い」の意味で嘉多町となつたのは1774年の頃、江戸では
田沼意次の全盛時代。

(8)並榎町


区域は広大、明治22年に下並榎村を高崎に編入。従って並榎の名は
古いが、高台に榎木が多かったからという由来は何とも単純だが。
旧市内でこの町だけは同じ並榎町という交叉点道標が東南端と
西北端に2箇所ある。村上鬼城晩年の居宅「並榎村舎」は記念館。

(9)住吉町


今や、市街地北部の大動脈となったこの地もかっては旧赤坂村の
出先の耕地に過ぎなかった。500年以上も前に今の赤坂・長松寺が
建立されたと云う頃に、その境内に住吉明神があったとされるので
住吉の名も古い。明治三年の高崎編入のとき、住吉・真砂・竹川等の
候補から抽選で決まったとか。「住んで」「吉し」のこの町名は前橋と
伊勢崎にもある。

(10)鞘町


田町の西隣。井伊氏の高崎移転と共に移ってきた町。戦国から徳川時代
を通じて重要な位置を占めていた鞘師が多く住んだ事から町名になった職人町。
明治初期までこの町の両側にはかつて研師が住んだ「研町」もあったとか。
昭和二年までこの地に住んだ村上鬼城の旧宅跡には石碑が建てられている。

(11)連雀町


箕輪からの移転町。大手前の大通りの町で城内から中山道に出る正式の
大道。総町の第一とされて繁栄、名主の長もこの町から出ている。
連雀は元は「連尺」、連尺とは二枚板を合わせた背負い具。
町周辺からこの連尺で品物が運びこまれ、「連尺運上」なる口銭も
徴集されていたとか。後に連雀に町名変更。この町名、県下では唯一。

(12)宮元町


旧士族の町、連雀町と接する角には奉行所があつた。町内に歴代城主の
大河内・松平氏の遠祖をまつる「頼政神社」のお膝元の意味で明治4年に成立。
頼政とは源頼光四代の孫で「鵺(ヌエ)退治」の伝説を後世に残した源三位頼政。
源氏衰退の中で唯一平家政権で地位を確保していたが1180年に以仁王を
奉じて挙兵するも宇治平等院で自決。
神社は高崎城主・右京太夫こと松平輝貞が大河内の氏神として1698年に建立。
大河内=松平=源氏という図式による。
1710年に輝貞が間部詮房によって越後・村上に左遷されると一旦神社も村上へ。
1717年に吉宗によって呼び戻された後の1718年に再び高崎に移転設置された。
尚、社宝の「稲妻の鎧」は最後の藩主で高崎県知事の輝声(テルナ)の寄贈。

(13)新田町


シンデンマチと読む。昔の赤坂村の新田だったことからの命名。
戦国時代、未開発地の水田化が進んだが、井伊直政の後の二代目城主・
酒井家次の時代、城下町経営の政策として新後閑村の民家を移住させて
成立。この町の成立により中山道は新町・新田町・南町のルートとなった。
聖石の渡し舟の権利を持っていた。家次は酒井忠次の嫡男。

(14)南町


高崎の南端と言う意味で六代目城主・安藤重長時代の誕生。
竜見町との境にある愛宕神社は古く和田氏時代の創建説。
南の火防の守り神。江戸時代は中山道上りの高崎宿の入り口

(15)柳川町


市役所に繋がる大通りの小さい路地入り口にひっそりと道標。
高崎城の北側堀外にあり通りを挟んで東部と西部に分れる。
西部は昔の北廓で武家屋敷の在った所、東部は明治初期まで
湿地帯、後に軍部(十五連隊)の花町、戦後は夜の飲食街。
地内を流れる用水の岸に柳の大木があったことから明治六年に命名。
自由民権運動の宮部譲、キリスト教の内村鑑三、日銀・深井英吾は
この町の出身。

交叉点名の写真撮りは適当な駐車場所が無いので結構難しく、長距離
ハイクと同じになる。第一回はここまで。

参考
旧塚沢村―飯塚町・貝沢町・江木町・高関町・岩押町・芝塚町・天神町
     飯玉町・日光町・稲荷町・東貝沢町(4)
旧片岡村―乗附町・石原町・寺尾町・八千代町(4)・片岡町(3)・聖石町・
     城山町(2)
旧佐野村―新後閑町・和田多中町・上佐野町・下佐野町・佐野窪町
     下之城町・上中居町・下中居町・中居町(4)・栄町・双葉町
     北双葉町・
旧六郷村―上小塙町・下小塙町・筑縄町・上小鳥町・下小鳥町・上並榎町
     問屋町(4)・問屋町西(2)・緑町(4)
旧新高尾村―新保町・新保田中町・日高町・中尾町
旧中川村―大八木町・小八木町・正観寺町・井野町・浜尻町
旧碓氷郡八幡村―八幡町・鼻高町・藤塚町・若田町・剣崎町・下大島町・
       金井淵町・町屋町
旧豊岡村―上豊岡町・中豊岡町・下豊岡町・北久保町
旧長野村―楽間町・行力町・北新波町・南新波町・沖町・菊地町・我峰町
     浜川町
旧多野郡八幡村―根小屋町・山名町・木部町・阿久津町
旧大類村―上大類町・宿大類町・南大類町・中大類町・下大類町・柴崎町
旧倉賀野町―倉賀野町・宮原町
旧京ヶ島村―京目町・大沢町・萩原町・島野町・矢島町・元島名町・西島町
旧滝川村―西横手町・宿横手町・中島町・上瀧町・下滝町・下斉田町・八幡原町
旧岩鼻町―岩鼻町・綿貫町・台新田町・栗崎町・東中里町・矢中町
      
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