クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

年末の雑談 H-23-12-26

2011-12-27 13:51:04 | 伝説・史跡探訪
年末なのでーーと言う訳でもないが過去の爺イの記事にどうも
間違い臭いところがあるので修正をする。
問題の発端は上の写真「東宮殿下御手植之松」の石碑。何処に在るかといえば
乗附城址の近くでもあるし、三角点・乗附や東鉱標石のある場所に近い。
かって爺イは古城址探訪や三角点探しの記事で屡この石碑の写真を載せて
明治三十五年当時の東宮(皇太子)とは後の大正天皇の事だとか、ここに皇太子が
来たのは大演習でもあったのかな?その時のお手植えの松は今は無いーー
などと気楽に書いてきた。その根拠は時々参考にしている大正14年発行の「群馬郡誌」に
「明治35年5月19日 高崎蟹下苑に御一泊、翌20日片岡村乗附山にお登り
遊ばされ、記念の松をお手植えあらせられる」とあったからだ。

ところが、この群馬郡誌の短い記事に三つも間違いがあったことが田島武夫氏の
著書から判明した。日付は一日ズレ・宿泊場所は間違い・お手植えではないーーの
三点らしい。

田島氏の著書に爺イの資料を加味して当時の状況を再現してみる。

「明治35年5月20日、皇太子(後の大正天皇)は東北地方見学という事で第一日の宿泊地の
高崎に到着。この旅行は(公然の御旅行と誤認せざる様、特に注意を要す)という通知が
あったと言われ(奉迎準備は一切無用)という、お忍びの旅だったとの事。

皇太子は生まれながらに病弱であり屡療養をしているが特に体調を崩したのは
即位した後の第一次大戦頃からでこの24歳の年代では比較的元気だったし、
既に二年前には九条節子姫と結婚し昭和天皇も誕生している。

さて、第一日の宿舎は当時の高崎商業(後の商工)会議所会頭の実力者・中島伊平宅。
つまり、群馬郡誌に書かれた蟹下苑ではなかったと言う事だ。
勿論、蟹下苑もかつては高崎三名園の一つで貴族院議員だった桜井伊兵衛氏の別荘。
現存はしていないが場所は中央小から堰代町に抜ける道で現在は有料駐車場らしい。

皇太子は高崎に到着して宿舎で昼食の後、突然に高崎中学を訪問する。
驚いた学校側は急遽授業内容を変更して4.5年生が校庭で兵式体操をご覧に入れ
1.2.3年生は室内授業を参観して戴いた。

皇太子は二階の教室から乗附丘陵を眺められたが丁度藤の花が満開だったそうだ。
この花は田町・文心堂の柴田家の庭園だったらしい。咄嗟に乗附行きが決まった。
皇太子はマゴマゴする関係者を尻目に聖石橋を渡って元気よく丘陵に登り、
柴田量平氏が休憩時に同園産の松露を献上した。柴田氏はこの野立の地に後日、若松を
植樹し「千歳の松」と言われるようになる。高崎中学は未だ乗附ではなかつた。

つまり、植樹は「お手植え」ではなく柴田氏による記念樹だったのだ。
では、どうして「お手植え」となってしまったか?と云うと、後年この話を聞いた
時の市長が早合点して建ててしまった物ということ。日付も20日であつて
19日ではない。

お忍び旅行といっても当然の事に伴奉員たちが二十名ぐらい付いていたが
当時、「輔導職」の任にあつた「有栖川威仁親王(1862-1913)」も付いていた。

威仁親王は大河ドラマ「篤姫」で御馴染みの和宮のかつての婚約者であつた
熾仁(たるひと)親王の弟君に当たり当時は41歳。
海軍軍人ではあつたが実戦には出ていない。だがロシア帝国のニコライ皇太子
(後のニコライ2世)来日の際、外国留学の経験を買われ明治天皇の名代として
接待役を命じられたが滋賀県大津市において大津事件に遭遇している。
先日終了したNHKドラマ・坂の上の雲のハイライトである「日本海海戦」のときは
ドイツ帝国皇太子の結婚式に天皇名代として出席のため欧州にいた。

皇太子は乗附遊びの帰路、この威仁親王の宿舎になっていた椿町の須藤清七家の
別荘に立ち寄り歓談している。この須藤氏は商業(後に商工)会議所の副会頭の
実力者。高崎水力電気会社の社長でもあり高崎・渋川間の群馬鉄道馬車会社の
発起人となり、明治26年に開通してさせており電気会社との連携で明治43年に
電車化に成功している。

皇太子はこの別荘の林泉(林や泉水を配して造った庭園)や野放しになっている野兎が
気に入ったらしい。
一方、威仁親王は「神様ものびのびくつろぐ屋敷」という意味で「暢神」の弐字を
揮毫された。それが縁で今では「料亭暢神荘」で明治の野兎に替って孔雀が
闊歩している。



と言うお話でした。


2014-9/17追記
先日、下段コメント欄に柴田量平氏に関するコメントを戴いたが
小生は史跡・故事が好きで色々と訪ね歩いてはいるが、研究者とか
地元史誌関係者でもなく唯の野次馬的な存在なので詳細は知らない。
従って国立図書館のこのページを埋めるすべを持たない。

https://openinq.dl.ndl.go.jp/authorDetail?authorId=ZC00002323

但し、今は存在しない「文心堂」さんが実は九蔵町に在った小生の
母方の祖父のご近所さんであった事を思い出し少し調べてみた。
先ず、図書館で何とかなるかと思ったら何もヒットしない。
唯一、群馬県人名事典に量平氏のご子息の「吟三」氏が箱根登山鉄道社長
としての記載があり、そこに「量平・つや夫妻」の二男とあり
量平氏は大正三年没とだけあり生年は手がかり無し。
因みに吟三氏は吾が母校高崎高校の第二十回の卒業生、第五十回の
小生が今や81歳を越えているから時代差は正に一世代。
そこで昔から田町や九蔵町にある老舗を訪問して子孫探しをしてみた。
小生は偶々戦時疎開で高崎に一時居住し漸く東京に家を得て1951年に
帰京するまでこの九蔵町の祖父母の家にも同居していたことがあり
その頃から記憶にある豊田園さんと越前屋さんを訪ねた。
豊田園さんでは「日記」の事を教えて頂き越前屋さんでは
電話番号を知らされた。
皆さん、文心堂さんの事は良くご存知ではあったがご子孫の現居住地は
つかめずだった。この電話番号はネット検索すると
田町五番地の元の文心堂になっていて呼び出し音はするが繋がらない。
そこで今度は市役所や図書館に連絡して豊田園さんの言っていた
「柴田源作・量平」親子が二代に亘って書き残した「柴田日記」なるものの
存在とそれが市の指定文化財になっていることを知った。

http://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2013121801430/

この日記は下仁田戦争の時から始まっている毛筆書きなので我々が
簡単に読み下すのはやや困難。全11冊で活字化すれば500ページとの事。
市史担当の方で現代語に変換は無理としても活字化するように
予算申請を考慮中とか。
これが一般の著書ならば巻末に著者略歴が記載されるのだろうが残念ながら
柴田親子の私的な日記そのものであるのでそれは期待するのも無理。
と言う訳で現在はここまで。
柴田家の墓地は中紺屋町の玉田寺と聞くのでそのうちにお参りに行ってみる。

追記2
9/17 高崎市市史担当の方より連絡があり量平氏は
1849-1914と判明したので国立図書館に連絡しようとしたら
著作者情報公開調査柴田量平データーのページが閉鎖になっていた。何方かが
情報を入れたらしい。だが、郷土の文化人を知ることが出来たので
良しとする。








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5 コメント

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Unknown (興味本位)
2014-09-12 14:12:13
現在、国会図書館が柴田量平氏の生没年など消息について公開調査をしています。
https://openinq.dl.ndl.go.jp/authorDetail?authorId=ZC00002323

国会図書館の情報を見て、柴田量平氏に興味を持って検索したところこのページがヒットしました。柴田量平氏について情報をお持ちでしたら、国会図書館へ上記URLより情報提供をしてあげてください。
返信する
re;柴田量平氏 (爺イ)
2014-09-17 09:29:48
興味本位さん
遅くなりましたが本文に追記しました。
返信する
柴田量平氏について(1) (興味本位)
2014-09-19 17:34:33
私なりにネットで調べてみたところ、

高崎市の文心堂書店は少なくとも12年前には存在した様子で「全国書店新聞 平成14年9月21日号」の記事中に今年喜寿を迎える日書連共済会加入者として「〔群馬県〕柴田英和(高崎市・文心堂書店)」の名を発見しました。柴田量平氏の親族(おそらく孫にあたる)と推測され、12年前の時点で「喜寿」ですから今年には89歳となられる人物です。

また、榛東村の広報誌「広報しんとう2014 3 No.517」に、ふるさと納税をした人物として「柴田 英和様(高崎市)」と掲載されていることから、最近に存命かつ高崎市内在住である形跡が確認されます。

ここまでの情報は国会図書館に提供しました。

現時点において国会図書館の公開調査ページから柴田量平氏の項目は削除されているようですので、おそらくは国会図書館が何処から生没年情報を入手して著作権処理が「保護期間満了」として解決したために氏の公開調査を終了したものと考えられます。

興味本位(笑)に「今の文心堂書店」の存在も気になるところですが、所在地をネットの地図サイトで照合してみると、どうやら現在は駐車場になっているように見えます。もしかすると書店はすでに廃業してしまったのかもしれませんね。私が調べた情報はこの程度です。

さて、「追記」はとても興味深く拝読しました。ひょんなことから私が首を突っ込んだばかりに大変なご足労を掛けさせてしまい頭の下がる思いです。柴田家と市史にまつわる様々な話が掘り下げれられていて、人物像や時代背景をより深く想像させられる貴重な情報であり、軽い気持ちで興味本位に関与した私にはもったいないような気分になりながらも大いに楽しませていただきました。とりあえず国会図書館の方は「解決」ということであろうと思われます。たまたま縁あってこのように面白いお話を伺うことができたのは幸運でした。ありがとうございました。
返信する
re:文心堂 (爺イ)
2014-09-20 14:12:06
興味本位さん
今日、吃驚する事が起きました。
文心堂の柴田英和さんと電話が繋がり
長々と昔話をしました。それによると
日記を書いたのは柴田源作・量平親子ですが
量平さんのご長男が二月生まれの「祐二」さん、
弟が3月生まれの吟三さんで
祐二さんのご長男が英和さんで大正15年生まれで現在連雀町にご健在です。
だから量平さんのお孫さんが市内に
居られたのです。
返信する
re:re:文心堂 (興味本位)
2014-09-21 21:58:45
高崎市史に残る人物の子孫が今なお市内に健在という事実は、市の歴史や文化を見つめ直す上で大変心強い存在ですね。

書店の電話番号は存続していたとのことですが、やはり当の「書店」としては現在では営業していないというのが結論となるのでしょうか?

明治初期の頃から営業していた老舗の書肆「文心堂」が平成の時代に入るまで書店として継続していたのに今では存在しないとすると、いろいろな事情もあろうかとは思いますが、非常に惜しいです。

目下のところ、「柴田日記」の活字化が気掛かりな課題ですね。担当部局の活躍に期待して、なるべく早いうちに日の目を見るようになることを願います。
返信する

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