教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

〈諦めの哲学・慰めの哲学〉批判(2)--虚飾や先入観を排し、声なき声に向き合うこと

2013年12月16日 | 教育全般
〈諦めの哲学・慰めの哲学〉批判(2)--虚飾や先入観を排し、声なき声に向き合うこと

▼〈諦めの哲学・慰めの哲学〉批判(1)で、私は
「8年もひたすら待つと言うこと、それは一種の〈死の宣告〉に等しい。保護者達は〈不登校セミナー〉の会場に〈救い〉を求めてやって来たのではあるまいか?単なる慰めや諦めを聞きにやってきたのではあるまい。」
 と言い、〈救いの方法〉を提示することを告げた。その宿題にわずかでも答えておきたい。

▼しかし、その前に言って置きたいことがある。それは「不登校問題に出来合いの安易な答えを求めてはいけない」ということ。それが無意識であるにせよ、不登校を選択した子ども達は少なくとも〈出来合いの生き方を拒否した子ども達〉であるのだから。だから、そのつもりで聞いてほしい。
 それでも中には、不登校の子ども達を〈できない子ども達〉の範疇で捉えたがる大人も大勢いるだろう。それはそれで致し方ない。それが現状なのだと認識するしかない。それに、現実にそうなる子ども達が大半であろう。〈それでも、なおかつ…それに異議あり〉と考えるところから、この〈諦めの哲学や慰めの哲学〉批判、不登校の子ども達への〈救い〉の話は始まる。そう考えてもらいたい。

▼そもそも、なぜ8年にも及ぶ不登校支援や家族の関わりを〈諦めの哲学・慰めの哲学〉と断ずるのか。そこをもっと解りやすく説明する必要があリそうである。
 私もまたその話を聞いた時、〈良かったね!〉と喜んだ一人である。そのことに他の人達と変わりはない。たとえ何年かかろうと最終的に立ち直ったことは素晴らしいことである。また、このセミナーとは直接関係のないところでも10年かかってようやく立ち直り公務員になったという同種の話なども聞いている。それは他所の話ではあるがやはり嬉しい事に変わりはない。しかし、それはモデル的な事例として他に示す事柄ではあるまい。
 そこまで長引かせてしまったのは、やはり家庭の問題、自己責任の問題と言えなくもない。公的な支援も受けられないまま放置してきたことの結果ではないのかある。〈冗談じゃない!〉と憤るべきはこちら側ではないはず。

▼おそらく親御さんは気付いない。誤解されている。親御さん達は〈子どもが8年もかかったけどようやく動き出してくれた。待った甲斐があった。嬉しい!〉と思っていることだろう。新聞等で眼にする記事だが、どこか8年も家に監禁された被害者が加害者のことを〈あの人も優しいところがあった〉等と言うのと似ている。
 〈私がこの子のためにどれほど心血を注いできたか!〉と言う親御さんがいる。確かに〈ご苦労さんでしたね。大変でしたね〉と思う。と同時に〈でも、そのためにその子は8年間も自分で動くことができなかったんですよね〉と言わなければならない。いやいや、そんなことは喩えだけであってほしいものだ。

▼これは不登校ではなく引きこもりの子どもの話なのだが、程度の差はあれ、その現れ具合いはよく似ている。こういう話である。こうである。
 〈ある高齢の親御さんが様々な資料を手にして涙ながらに訴える。
〈「私達はあの子のために、こういうことも、ああいうことも--小さな時から手塩にかけて育ててきた数々の記録資料。成績向上のための棒グラフもある--やって来ました。その結果がこれなのでしょうか!〉
 その高齢の親御さんの姿を見れば言葉に詰まる。30歳過ぎの息子さんはいまだに社会参加できない。昔は優秀な頭脳の持ち主と言われたらしいのだが…。しかし、事態を変えるためには正直に言うしかない。
 〈そうなんですよ。お父さん、お母さん、その結果なんですよ、これは。あなた方が何から何まで代わりにやってあげたがために、あの子は自分で動くことができなくなってしまったんです!〉

▼もしかしたら、親御さんは〈子どもが動き出したから、私も楽になり、ゆとりが生まれた〉と思っているかも知れない。が、実際は全くその逆かもしれない。親御さんに--諦めや投げやりな気持ち、自分は自分との思い等が高じたからか--気持ちにゆとりや隙間が出来、気楽に我が子と接するようになり、それで子どもも自分の意志で動き出せるようになったかも知れないのだ。
 親子というものは不思議なもの。親にとって子どもは何歳になっても我が子。60歳、70歳の老人も100歳近くになる親からすればかわいい自分の子どもなのだ。時にはそれが良くも出れば裏目にも出る。
 逆に、子どもにとって、親はやはり親。世間では五右衛門という極悪人の大盗賊であっても家では子どもにとっては理想のパパなのである。子どもはそれ以上の世界を知らないし判断もできない。健気であればあるほどそうなりがちだ。

▼話が逸れてしまった。不登校の問題に戻ろう。ひと言で言えば〈不登校に出来合いの答えはない〉。でも、そのまま放置しておいていいはずもない。
 以前、たくさんの書物を読みあさり、本に書いてある様々なことを我が子に試みた人がいた。でも、うまくいかなかった。〈もうダメ!万策尽きた!〉と全てを投げ出した時、我が子はやおら動き出した。そんなエピソードを語ってくれた人がいた。
 以前、カウンセラーの子が不登校になり、彼は我が子のために専門的に可能なあらゆる知識や技能を駆使して対策を立てた。だが、子どもは一向に受け入れようとしなかったばかりか、遂にはその子どもに金属バットで殴打されて絶命するという事件もあった。
 何が良かったのだろうか?何がいけなかったのだろうか?

▼原点に帰ろう!一切の虚飾を排し、一切の予備知識や先入観を捨てて、まずは不登校という現実と生に向き合おう。そして、不登校となった子どもの生の声に耳を傾けよう。現象としての子どもの声にではなく、現象の声の向こうから響いてくる子どものマナの声に耳を傾けよう。
 その時、聞く人もまた試されている。その子独自の声が聴こえるだろうか。声なき声が聴こえるだろうか。あなたはそれを聴き取る耳を持っているだろうか。目の前にいる我が子が本当にあなたに見えているだろうか!それはあなた自身気付いていないバリヤーやレイヤーに包まれてはいないだろうか!そういう問いが親である自身に突き付けられる。それが不登校という問題の奥深さ、怖さである。私はそう感じている。しかし、そこから始めるしかないのである。

(続く)

※殴り書きです。推敲をしていません。ご判読ください。後に加筆訂正することがあります。ご容赦を。

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