教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

川口市中3少女父親刺殺事件から

2008年07月20日 | 「大人のフリースクール」公開講座

「目覚めた時思い付いた」 埼玉、父親刺殺事件(共同通信) - goo ニュース

埼玉県の東川口のマンション住まいの家庭で、さいたま市の中高一貫の私立中学校に通う中学3年生の女子が、深夜3時頃、自宅の台所の文化包丁で(出刃包丁?)ベッドに寝ていた父親を殺害したとして逮捕された。

前日夕方の食事には父親の作ったカレーで一家4人の団欒の食事をしたということで、事件に至るようなトラブルはなかったという。「なぜ!?」「 どうして!?」というのがその家族や事件を起こした本人を知る人の反応らしい。およそこんな事件など起こすなど考えられない「いい子」であったし「いい家庭」であったという。

報道では本人が未成年者でもあり報道被害も考えて学校名は伏せているが、さいたま市内の共学の中高一貫校といえば限られてしまうし、同じ市でフリースクールという教育活動をしていることもあり(近隣の家庭や同じ学校の生徒の場合もある)、こういう情報は敢えて意図的に検索しなくても向こうから飛び込んでくることが多い。

さて、今回の事件だが、「えっ、本当!?」という驚きよりも、「ああ、またか…」という感慨の方が先に来る。“意外”というよりは、“あってもおかしくない”という思いが強い。今の子どもたちを取り巻く教育状況からして、“起こるべくして起こった”という感じさえする。ヘボ将棋をしていれば当事者は気付かないが岡目八目の視点を持つ者からは何ら不思議ではない出来事である。かつて文部省は「不登校はどこの家庭でも起こり得る」と言って話題となったが、今や「どこの家庭でも起こり得る」ことは不登校にとどまらず、“引きこもり”にせよこの度の事件にせよ、幾つもあるのである。

かつては“異常だ!” “変だ!”と言われたことも、その渦中に身を置いてしまえば異常でも何でもなくなる。それが当たり前の空気として呼吸し生活することになる。それが今、学校という場での教育状況であると私は感じている。

現実的に事件を考えれば、いわば模範的なさして非の付け所がない庶民的な家庭生活がそこにあったことは間違いなかろうと思う。経済格差とか双こぶ駱駝とか言われる社会の中でも、比較的安定した生活があったのではないか。そして、子どもたちの成長もほぼ親たちの期待に沿ったものであったことだろう。だから、ごく普通に考えれば今回のような事件はあり得ないことであった。

では、何故、今回このような悲惨な痛ましい事件がこの家庭で起こったのか。それは、「どこの家庭でも起こり得る」とは言っても、それは飽くまでも可能性の話であって、実際にどの家庭でも次から次へと起きるわけではない。起きるにはやはり訳があるのである。その訳とは何か。

(続く)