教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

東川口中3女子父親刺殺事件から(3)…軽すぎる「命の感覚」

2008年07月27日 | 「大人のフリースクール」公開講座

長女、時折趣味の話も 川口・父殺害、動機は語らず(朝日新聞) - goo ニュース

東川口中3女子父親刺殺事件から(3)…軽すぎる「命の感覚」

東川口中3女子父親刺殺事件は事件のあった19日からもう1週間以上経つが、当初から私が予想した通り、未だに動機らしい動機は見つかっていないようだ。さもありなん、という気がする。というのは、今回の事件の特徴は教育の常識的な視点からは見えて来ない、つまりそういう範疇では捉えきれない領域で起こった事件だからである。

長女を逮捕直後に「お父さんが家族を殺す夢を見た」とか、「目覚めた瞬間に父親を刺そうと思い付いた」とかいう言葉から「ねぼけ説」より専門的には「覚醒障害」によって引き起こされたとか、牽強付会(こじつけ)に近い説明まで含めて、一応尤もらしい解説にも思えるが、どの説も中途半端、帯に短し…の感が否めない。

受験のプレッシャーだとか、無断で学校を休んだのを父親に咎められたとか、他にもいろいろ動機になりそうなものは指摘することはできるが、どれも彼女に父親刺殺を行わしめた決定的な動機というものとは決め難い。正気に戻ってから長女は「大変なことをしてしまった」とも語っているようだ。その意味では「ねぼけ説」が一番近いと言えるかも知れないこれは哲学用語が日本に翻訳されて入ってくるとやたら難解な非日常的な用語になってしまうのと似ていて、精神・心理の専門的な分野の研究用語を当てはめて解説してしまうと、どうしても薙刀で刺身を料理するようなものになってしまう。ことはそんなに複雑怪奇なものではないのかもしれない。

いや、初めからそんなものはないのかもしれない。日常的な感覚で考えれば、極めて単純な事件なのかもしれない。たとえば、この犯人とされる長女は中学3年生になるまでどんな成育をして来たのだろう?もっと踏み込んで言えば、どんな死生観や倫理観をもって生きてきたのだろうか。そういう経験の世界が彼女の成育の過程であっただろうか。たとえば、ゴキブリと人間の命の違いは何?たとえば、若者が軽々しく他人に“死ね!”と口走るとき自分の生命をどう意識しているか、他の命と自分の命の違いや重さは…?

そこから見えてくるのは、自分の命の軽さであり人の命の軽さである。子どもの教育問題に関わり、ついでフリースクールの運営に従事するようになってから、絶えず気になっていたのは今の日本の学校教育、そして学校の教員たちにおけるどうしようもない「命の軽さ」の感覚であった。今までも、昆虫や蛙などの解剖にとどまらず、教員によるウサギの生き埋め事件、学校で飼っていた鶏や豚の・料理事件など、動物の生命に関わる問題を取り上げてきたこともある。電池で昆虫が動くと本気で思っている子どもたちが輩出する現在、学校自体が生き物の生命をどう扱っていいか分かっていない。いじめ、不登校、非行…など、学校を舞台とする事件に通底するものは実はこの問題なのだと私は思っている。

これは全くの想像なのだが、その犯人と目される長女は、ある程度の学力はあったのかも知れないが(これも推測だが、この学校は超難関の一流受験校ではない)、こと生き物の生命に関しては貧しい想像力しか持ち合わせていなかったように見える。もしかすると、「一度壊しても、リセットすれば元に戻る」くらいのレベルで命を考えていなかったのではないか。これはこの事件の直前にあった中学生のバスジャック事件にも言えるし、秋葉原での連続殺傷事件にも、この事件の後に起こった33歳の男性の殺傷事件にも言える。まさに「誰でもよかった」のである。この父親殺傷事件にしてもそうだろう。彼女にしてみれば、その父親はたまたま自分と同居する人間であったのであり、自分もまたたまたまその親の下に生れ落ちたに過ぎないのだ。

だから、気に食わなければリセットすればよかった。リセットした後にどうなるか?そういう想像力は持ち合わせてはいない。思考もまたそこでリセットしている。だが、現実には、それは彼ら彼女らが考えるような「おしまい」「やり直し」ではなく、架空のものではない重たい現実がそこから始まるのである今の子どもたちにはこの現実感覚がとてつもなく軽いのである。