教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

教師たちよ、あなた達は被曝から子ども達の命をどう守るのか?

2011年04月30日 | 教育全般

http://mainichi.jp/select/seiji/news/20110430k0000m010073000c.html

▼「毎日JP」によると、小佐古敏荘・東大大学院教授・内閣官房参与は29日、国会内で記者会見を行ない、菅直人首相あての辞表を首相官邸に提出したという。福島第一原発事故の政府の対応を「場当たり的」と批判。特に政府が小中学校の屋外活動を制限する基準を年間20ミリシーベルトに決めたことに学者の良心が疼いたようだ

▼これは政府の事故対策本部が福島県内の学校や幼稚園での野外活動を行う際の制限の基準である。文部科学省の通知もこれに則り、教職員は線量計を携帯して実際の被爆量を確認して判断するらしいのだ。子どもの命や健康の問題は二の次のようだ。

▼年間20ミリシーベルトという被爆基準は原発の作業員でも滅多にいないようだ。この基準を容認すれば自分の学者生命は終わりだとも氏は言う。この数値を乳児、幼児、小学生に求めることは自分のヒューマニズムからしても受け入れがたいと。氏は原発事故発生後、内閣官房参与に任ぜられた一人だ。だが、彼の意見は全く取り入れられなかったようだ。

小佐古氏の学者としての良心に基づく行動に、わずかに救われた気がする。「ああ、この国にはまだ学者の良心が残っていたのだ」と。連日「大丈夫」の誤魔化しを聞かされて、地位と名誉と利権のために専門家や学者たちはみなその良心を悪魔に捧げてしまったのかようだった。

▼ しかし、喜んではいられない。文部科学省も学校の教師も、子どもの命を被爆から守ることよりも、「政府の命令だから」「上からの命令だから」危険に晒すのもやむを得ないと考えているように見える。もしそうならば、この日本では子どものための本当の教育はもう死んだに等しかろう

かつてあたら若き命を戦場に散らせることに教育が加担したという苦い歴史がある。その時、彼らはみな民主主義教育者を演じることで延命と保身を図った。が、それはまだ過去のことではないようだ。福島原発事故の下で、文部科学省やその配下の教師たちはまた同じような愚をやろうとするのだろうか。「当時は仕方なかったのだ」と。

▼もう理屈はいいのだ。数値の誤魔化しはもう結構なのだ。ただし大人たちがそれでもOKというなら、この際それもやむを得まい。それこそ自己責任だ。だが、何も知らない子どもたちの命を危険に晒す権限は教師にはないはずだ。今は何よりも、具体的にどう子どもたちを守るのか、保護すべきなのかを考えねばならない。そして、速やかに行動に移さなければならない
 この大人の責任を放棄することは許されない。「原発は僕らが持ち込んだわけじゃない」「原子力安全委員会は適切と言っている」─今そんなご託宣を聞いているゆとりはないはずだ。ああ、本当に、もうこの内閣は限界に来たのかもしれない。
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教師がモンスターペアレンツを訴えるということ

2011年01月19日 | 教育全般

▼保護者の間では「困った先生」とか「教員の当たり外れ」などという会話が公然と語られても、他方で、たとえばPTAの役員の間などでは「子どもがお世話になっている間は先生の心証を良くする」のが当たり前ともされていた。教員や学校に異議をとなえることは愚かな親のやることであり、タブー視されてきたのだ。しかし、そういう中でも数々の教員・学校批判は底流としてあった。
 一方、学校側からすれば保護者には様々なタイプがあり、なかなか一律には行かないというジレンマがあっただろう。学校に児童生徒としてやってくる子どもたちの背後にはおそらく学校を終えてすぐ教員になった人にはその一部しか想像できない多種多様な職業や生き方をする親たちの生態があった。教員たちから見たそういう訳のわからなさも手伝ってか、いつごろからか「モンスターペアレンツ」という言い方が学校教育の世界で使われだすようになった

 
▼それは最初、学校教師の正当性や優位性を示す観点から発せられた言葉であったのかも知れない。確かに一方ではそういうクレーマーとしての親の存在を炙り出すのにそれなりの意味合いはあっただろう。しかし、他方では学校教員の対処能力の乏しさ、狭量さをさらけ出す結果にもなったということは否めない。そのように命名したところで、問題がより鮮明に浮き彫りにこそなれ、それで問題が何一つ解決する訳ではないのだ。ただ、教員たちのどうしようもない悲鳴を聞くだけのことで、せんかたない駄々っ子の愚痴を耳にするのに似ていた。

▼そこに、今回、驚くべき事態の展開が起こった。埼玉県行田市の小学校の女性教諭が、自分のクラスの女生徒(9)の両親をモンスターペアレンツとして、不眠症の慰謝料500万円の補償を求める訴訟を起こしたというのである。確かに学校内での子どものトラブルをきっかけにその親が取った行動は電話での話、連絡帳への書き込み、文科省や市教委への通報など、常軌を逸したような行動に見える(一方からだけの物の見方だが)。だから、当該の女性教諭へのある種の同情もわく。が、生徒の親一人にも余裕を持って接することができず、自分の振る舞いにも問題はなかったかと振り返る器量もないキャパの狭さもまた浮き彫りだ(それがあったら、バカな訴訟に発展させることもなかったろうに)。

▼ところが、「モンスターペアレンツに学校や教師が負けないようにし、教諭が教員を代表して訴訟を行っていると受け止めている」と、小学校側が2010年10月、市教委に対しこんな校長名の文書を提出したというからますます驚きだ。そもそも、この校長に保護者への対処能力に欠けるところがあったからこんな事態になったのではないか…というのが、ますますはっきりしてしまった。これは小学生が学ぶ学校の教育者が取る措置ではまったくない。
 これに対して、市教委が「あくまで担任と保護者の間の訴訟と認識している」とコメントしたのは正しい。本来、これは子どもの教育の問題であって、大人の利害やメンツのレベルの問題ではない。そして、抑えておくべきことは、「親は子ども如何によってはジャにも蛇にもなる」ということである。

▼訴訟で争うということになると、子どもに端を発した教育の問題でありながら、それはもはや子どもの問題ではなくなる。子どもの頭越しに物事は展開し、子どもの教育問題はそのダシに過ぎなくなるだろう。教師はそこまで考えて訴訟を起こしたのか。教諭を支持するという校長は、そこまで考えて訴訟を後押しするというのか。
 はっきり言って、こういう問題を教育の問題を扱うには似つかわしくない訴訟という手段に打って出たという時点で、子どものための教育は死んだのであり、訴えた教師もまたその職を捨てたのだと言っていいだろう。何よりも子どもの声に耳を傾けることを忘れた「狂育」がそこにある。
 

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■最近の新聞報道の教育・学校批判記事に思う

2010年10月30日 | 教育全般
マスコミ三大紙を揶揄する言葉がある。「読売与太者、毎日眉唾、朝日偽紳士」と言うものだ。世間の人はよく見ていて実に巧いことを言う。言い得て妙である。ユーモアとウイットに富んでいる。マスコミの特性もよく見抜いていると感心する。

▼どちらかというと左派的な色合いの強い(と世間一般に思われている)「朝日偽紳士」に対して、日頃は中庸か右派的な色彩の濃い「与太者」読売新聞がこの頃、どういう風の吹き回しか、舌鋒鋭く教師批判や学校批判を連日繰り返している。その記事を見ると実にまともな報道である。
こういう情報が普段はなぜあまり報道されてこなかったのだろうか?逆にそんな疑問さえ浮かんでしまう。(いやいや、教育現場に携わっていた人の話を聞くと、本当は新聞記事にはならないけれどアンビリバボーな出来事がいろいろあるようだが…)

▼「教育ルネッサンス」をはじめ、読売新聞には様々な角度から教育問題に迫る記事があるが、現在の教育動向を無批判的に追認報道するなど、見方によっては当たり障りの無い記事が多かった(それはそれで良いところもあったが…)。人の耳目を惹きつける週刊誌的な見出しのつけ方の妙味に比して、「教育の事件簿」的な記事の取り上げ方は──事件の報道以外は──比較的少なかった。その目配せの多様さが報道の良さでもあり、突っ込みの物足りなさにもなっていた。

▼その読売新聞も、遂に業を煮やしたというのか、現場で起きた事件を紹介しながら、その返す刀で鋭く学校教育批判を繰り広げはじめたようにも見える。(いやいやもしかすると、これは読売の教育への報道のスタンスが変わったというよりも、天下の読売さえも動かずにはいられない事態が教育現場で次々と生じてきているということかもしれない。一方で日教組に批判的な報道姿勢はあったが)。
学校や教師の不祥事が連日報じられ、身内のなあなあ主義が白日のもとに晒され、幾つもの子どもの自殺の報道も続き、学校や教師側の対応のおかしさも報じられた。

▼たとえば、群馬県桐生市の小6女子のいじめ自殺も、もし父親が正義の怒りに奮える人ではなく泣き寝入りしてしまうような人であったなら、学校はこの事件をいじめと捉えることもなく、自殺するまでに無念な思いで一杯であったであろうその女子は自分の思いを誰にも受け止められることもなく、校長も担任も周りの子ども達もこの事件に無自覚なまま忘却されることになったであろう。
そこに新聞が詳しく報じたことも意味は大きい。「個人情報だから…」などという取って付けた言い訳に乗ってはいけないのだ。

▼昨日のマスコミの報道には、教師同士の中学校内での淫行の記事まで載っている(29日付産経新聞)。これではもう「亡国の学校教育」と言うしかない。もしマスコミに、今沈没しつつある泥船・日本丸の行く先を憂える視点があるのであれば、教育委員会や学校の言うことを垂れ流し記事で埋めるようであってはならないだろう。
しかし、日本と韓国の教育を比較した読売新聞の記事などを読むと、相変わらずまだワンパターンの思考(記事)が目に付く。もし、教育現場に分け入って生の現場を検証し、腑分けし、そこから記事を書き上げようとするなら、教育報道に携わる記者たちの更なる勉強と研鑽に期待しなければならない。

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ぱいでぃあの社会体験学習の目指すもの

2010年05月28日 | 教育全般
▼アンティーク展とミニ・コンサート
一作日の午後は、「フリースクール・ぱいでぃあ」の子ども達とさいたま新都心のスーパー・アリーナへ。25日と26日の2日間に渡って和洋合わせて210店が参加してアンティーク展が開催された。そして、5月の「ぱいでぃあの社会体験学習」をここにしたのである。(「ぱいでぃあ」ではほぼ毎月社会体験学習を行っている)(ちなみに、「アンティーク」と呼ばれるには、100年以上の歴史の風雪をくぐり抜けたものでなければならない。)
メイン会場の一角では、何とか四重奏団(ヴァイオリン・ピアノ・チェロ・フルート)によるミニ・コンサートも開かれていた。子ども達を生のコンサートに連れて行くのは普段はなかなか難しい。だから、ポピュラーなクラッシク(?)を生で聴くのならこういうところも悪くはない。
▼誰でもが楽しめる発見の場
アンティーク展というと古臭くガビくさいイメージを持つかも知れない。しかし、見方によってはとても楽しめる面白い場所なのだ。昔の調度品、書物や絵画、絵巻物、流行り物など、昔の風俗や歴史を考察するにはもってこいの場所でもある。「新資料発見!」などというものがたまにあるが、それはこういうところが舞台であったりする。
こういうイベントに目がなく、毎回欠かさず足を運ぶ人や、何か面白いものや懐かしいもの、掘り出しものなどを求めてやって来る人もいる。やはり高齢者の割合が高く、その人自身が骨董品的ということもある。しかし、若い人や子どもには逆に何もかにもが新鮮に映る場であると言えなくもない。
▼全ては自分で決めること
また、自分という人間が試される場でもある。展示品は玉石混交である。血統書や保証書など殆どない。出店するには業者としての届け出が必要だが(フリーマーケットではないので、個人は不可)、その品物が偽物か本物か、タダ同然か目が飛び出るほど高価なものか、それを客観的に保証するものはない
他人が気に入っていても、自分は全然食指が動かないこともある。他人には二束三文の価値しかないものでも、自分にとっては大枚を叩いてでも手に入れたいものもある。全ては自分の嗜好と意思と眼力で決めること。代金を払うのも自分、値切るのも自分なのだ。他人の基準はあくまでも他人の基準。それに従うも従わぬも自分次第。全ては自分の判断に掛かっている
▼自分の眼力と自己の楽しみ
「ハンマー・プライス」という番組があった。その道のプロが素人が収集している骨董品や家宝の類を判定するという番組。「いい仕事をしているねえ~」と持ち物が評価され、ガラクタだったものがお宝に化けることもあれば、数100万円もの家宝が1万円もしないガラクタに化けることもある。それと同じことがここでも起こり得る。
自分の眼力がどこまで本物か試される場でもある。ルイ・ビトンの高級品が「made in China」の偽物になってしまうこともある。もちろん、自分で気に入ったなら「これは偽物」と割り切って買うもよし(価値は必ずしも値段で決まらない)、ガラクタはガラクタとして楽しむというようなことがあってもいいのだ。
▼とても買えない高価な湯呑み
残念ながら、私には骨董の陶磁器を見抜く眼力はない。それでも、自分なりにと感じるものがなかったわけではない。ある店頭にあった大きめの湯呑み茶碗。色合いといい、多少厚手の実在感といい、何ともいい感じだ。思わずじっと眺めていた。入れ物に何か書いてる。眼鏡でよく見ると、「八十万円、人間国宝****」とある。思わず唸って、首をふった。見ると、そこの店主(たぶん)も私に合わせて首をふっている。笑ってしまった。「いいなあ」と思うが、とても手が出せない。
▼私が買ったペルーのオカリナ
実際に私が買ったのは、100円の小物数点とオカリナ。このオカリナは会場に入って間もなく、ガラクタの中に見つけたもの。でも、その時は買わないでいた。そして会場を一周りして終りの時間が近くなったとき、やはりそれが欲しいと思った。もし売れないで残っていれば買おう─そう思って行ってみると、そのオカリナは私に買われるのを待っていた。100円の小物と同じ袋に入れて持ち帰ってよく見ると、そのオカリナは南米ペルー産のもの。しかも、そのケースには「The Metropolitan Museum of Art New York」と書かれている。そのオカリナの辿った歴史を見る気がした。このような出会いも何かの縁かも知れない。でも、日本のオカリナと違って特殊な構造をしており、説明書も楽譜もない。うまく吹けるようになるかどうか自信もない。
▼教育行為とコモンセンス
アンティーク展の後は、四重奏団の演奏に耳を傾けた。目の後は耳の保養である。デジタル化された音よりは、やはり生がいい。特に優れた演奏とは言えないが、肌触りというか、質感が違う。これが本物かイミテーションかの違いであろう。
これは教育と実際のこととの違いに似ている教育とは本質的にイミテーションの行為なのだ。なすことも触れるものも、みな複製か模倣の産物である。大人が開発し意味付けたものを子どもに理解させ、伝達させようという行為である。そこに生まれ育ちでもしない限り、まず、本物に直接触れるということはない。これは批判ではなく事実の確認である。そしてそれはそれで意味のある行為だと思っている。
しかし、教育的行為の中でも、時には本物に触れさせることが必要であろう。温室栽培の野菜や草花にも、時には覆いをとって外気に触れさせることが必要なように。フレネ教育の創始者・セレスタン・フレネがよく子ども達を校外へ連れ出したように、その流れを引く「フリースクール・ぱいでぃあ」においても、それを重視している。個性的な子ども達であるからこそ尚更に、社会人としての正常なコモンセンスを身につけてもらうために
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4コマ漫画「コボちゃん」を通して視考力を養う(2)

2010年05月20日 | 教育全般
──今求められる国語力と視考力──

▼「映像イメージ」による思考方法
ここに一冊の学習参考書がある。「旺文社 中学 総合的研究 国語」とタイトルにある。執筆陣に私立開成中学・高校の教師陣を揃え、巻頭で「なぜ国語を学ぶのか」と問い掛け、「すべて言葉の力・国語の力だ」とするとても野心的な一冊である。「中学国語の参考書もここまで来たか!」という思いだ。一つの頂点を指し示す労作であろう。
特にこの中で、絶賛したいのは、「第6章 映像イメージの読み解き方を知る」という単元。わずか46ページ程度の記述だが(全体は576ページ)、極論するならこの単元をもってこの参考書の価値が決まり、この単元があるだけでこの参考書(2800円+税)を買っても損はないだろうと思う。
世間では、「右脳思考」だとか「あっは体験」だとか、脳科学ブームに乗って印税を荒稼ぎする人が多いようだが、話半分に聞いていた方がいいことが多い。それを軽く凌駕した内容がここには詰まっている。たとえば、「あっは思考」が新たな発見などではなく新たな思考の縛りでさえあることなどが具体的に納得できる形で記されている。
▼現代社会に生きる我々に必須の学び
だが、残念なことに、先の参考書には次のような断り書きがある。「この章は普通、学校では学習しない分野なので注意してください!」何ということ! 肝心の読解力を養う単元が学校教育の国語科からはすっぽりと抜け落ちているのだ。これが日本の「国語の授業」の実態である。ちなみに、その後にはこういう言葉が続く。「この章では、さまざまな映像イメージに潜んだ深い世界を国語力で読み解く訓練をします」
実は、この参考書ではこの単元で、漫画、映画、広告、写真(芸術・報道)などの特色やその読み解き方が丁寧に扱われている。そして「『漫画』→『映画』→『広告』→『写真』と文字が少なくなり、より純粋な映像イメージになっていることに注意」「学校の学習では触れられないカテゴリーだが、現代社会に生きる我々には必須の章」ともある。
▼学校の成績で国語力を錯覚するな
「国語力の低下」「言語を使った思考力の低下」というようなことが言われていながら、その処方箋の実態はこのようなものである。効き目のない薬をいくら塗りたくったところで病気は一向に改善しないだろう。根本から病理の見立てが間違っているのだから。
不登校になって「ぱいでぃあ」にやって来た生徒に言う時がある。「教師がいなくなった国語の勉強を、その教科書でどうやって勉強するつもり?」
生徒たちはその国語の教科書で勉強すれば国語力が向上すると思っている。大いなる錯覚である。国語の教師の言う通りに勉強していれば、学校の国語のテストの点数がよくなるのは確かだろう。国語の問題はその教科書に載っている文章を使って、教師が説明したようにテストには出るのだから。が、ここで誤解しないことだ。それは学校の国語の点数が取れただけで本当の国語力がついたわけではないのだと。まさに「教科書で勉強するのではなく教科書を勉強する」実態がそこにある。
それが嘘だと思う人は、試しに他の教科書会社の同学年の文章題をやってみるといい。結果は明らかだ。授業でその文章を習わなかった生徒としての成績が出るだけである。だから、その文章の授業を受けなかった生徒たちは受けた生徒たちよりも国語力が低いかというとそんなことはない。つまり、学校の国語の成績は本来の国語力とは全く別物であるということである。
▼自由な学びとフリースクールでの学び
では、本当の国語力を上げるにはどうすればいいか。先に見たように、学校教育の中にはその処方箋はない。文科省の掲げる学習指導要領の中にはないのである(「NIEでメディアリテラシーを学ぶ」などといったように、そろそろ主役の座を失いつつある新聞を題材に──新聞の魂胆が見え見えだ──未来に繋がる情報発信力など養えるのか)。むしろ、我々フリースクールのように必ずしも学校教育法に縛られない自由な学びや発想の中にこそあると見ていいのではないか。
しかし、そのイメージとは裏腹に、日本のフリースクールは特殊な形態をしている。その大部分は学校をドロップアウトした生徒の収容の場となっており、身体的・精神的・知的な障害を持っている子どもの割合がとても高い。だから、一般の人も一様にそういうイメージを描くようだ。
また、フリースクールには「学びの学園」とか「学びのコミュニティー」などと謳っていても、実際はそこの障害者を中心とする人達のレベルに合わせた学びであって、一般のイメージとは大きく異なることがある。
もちろん、それはそれで尊重されるべきだが、世間一般で言われる基準通りの学びの場や活動の場を求めている子ども達にとっては混乱のもととなる。実際に、そういう悲劇にあって私達「ぱいでぃあ」に転校してきた子ども達が今までに何人もいる。
(3)へ続く
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4コマ漫画「コボちゃん」を通して視考力を養う(1)

2010年05月19日 | 教育全般
▼「5歳の眼差し」という問題
この前は「クレヨンしんちゃん」の話題に触れたので、今回はそれと相照らし合う関係にある人気漫画の「コボちゃん」を取り上げたい。あえて指摘しなくてもご存知だと思うが、「コボちゃん」も「しんちゃん」も共に5歳の男の子である。これは故意か偶然かという問題ではなく、必然なのだと私は解釈している。そして、それを私は勝手に「5歳の眼差し」の問題と捉えている。ただし、作者たちもそう思っているかどうかは分からない。

▼4コマ漫画の稀代の天才・植田まさし
「クレヨンしんちゃん」の作者・臼井儀人さんが不慮の死を遂げたとき、「コボちゃん」の作者・植田まさしさんの哀悼の言葉に注目した。あたら若き才能の早過ぎる死を誰よりも悼んだのは、「コボちゃん」の作者植田まさしさんだったかもしれない。人は人を見抜くものだから。
「コボちゃん」の作者に対する愛好者の評価は「クレヨンしんちゃん」の作者に対するものに負けず劣らず、いやそれ以上に高いとも言える。しかも、その支持は大人から子どもまでとても幅広い。しかも、「クレヨンしんちゃん」に対するPTAのおばさんのように、あからさまに敵対する人達もいない。「四コマ漫画家の中でずば抜けて面白い」「希代の天才漫画家」という評価は決して褒め過ぎとは言えない。

▼「コボちゃん」は4コマ漫画のバイブル
見方によっては、植田まさしの「コボちゃん」は4コマ漫画のバイブルなのである。言い方がダブルが、彼を評価する人は漫画愛好家だけでなはない。もしかするとこの4コマ漫画を掲載している新聞(読売新聞朝刊)の読者の多くが「今日はどんなマンガかな?」と思って真っ先に目を通しているかもしれない。そして、もしかすると…「コボちゃん」が載っているからその新聞を取り続けているなんてことも結構あったりして…。
その意味では「コボちゃん」は誰にでも愛された漫画「サザエさん」に極めて近い。ただし、「サザエさん」とは決定的な違いもある。それは、漫画「サザエさん」は良くも悪くも──それを作者がどれだけ意識していたかどうかは分からないが──純日本的で平均的な中流家庭をイメージして作られているということだ。「コボちゃん」にも似たような家族像があるにはあるが、意図しているところは全く違う。

▼「サザエさん」の「期待される家族像」的側面
かつて、天野貞祐という人が文部大臣であったとき、「国民実践要領」という冊子を出したことがある。そして、それで有名になった言葉がある。「期待される人間像」という言葉がそれだ(彼のそういう理想を具現化したものが「獨協大学」だとされる)。もし、「期待される家族像」「理想的な家族像」というものが想起されるとすれば、それは「サザエさん」一家である
「サザエさん」が変わらないのはそのためである。人も家族も社会も、本来は時とともに変化するものだが、「サザエさん」の時間は止まっていて、登場人物や家族像の変化や風化が描かれることはない。そのことからも、これは体制擁護の、現実是認派のイデオロギーの道具と見做される側面を持っている。

▼「コボちゃん」の「5歳という原点」
「コボちゃん」には「サザエさん」と同じような家族像が描かれてはいても、そういうイデオロギー的な側面はないように見える。その家庭は理想化されてはおらず、ただ彼が育つための環境として選ばれているに過ぎない。では、「コボちゃん」という漫画は人畜無害な非政治的な他愛のない漫画かというと、どうしてどうして、決してそう断言することは出来ない。人はどのような立場にいようとも──たとえば、何の意思表明をしなくても──その存在自体において政治的たらざるを得ない生き物なのだ。そういう意味においては「コボちゃん」もまた極めて政治的党派的なのである。
しかし、主人公である5歳のコボちゃんが政治的党派的であるというのは、まさにコボちゃんが「5歳」であるということにある。この点においては、奇しくも「クレヨンしんちゃん」もまた5歳であった。そして、緩やかに見れば、「コボちゃん」にせよ「しんちゃん」にせよ、本来は人(大人)への成長物語であるはずのものだが、彼らは「5歳」という原点にとどまり、そこから動こうとはしない。何故なのか。

(2)へ続く

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教科書の電子化で日本の教育が変わる!?

2010年05月15日 | 教育全般

教科書の電子化で日本の教育が変わる!?

▼電子辞書の普及と現代社会
 日本で電子辞書が普及し始めたのはいつからだったでしょう。私が子どもの頃は<岩波の「広辞苑」を枕にして寝る>なんて自慢していたものですが、この頃はすっかり電子辞書化して、あの分厚い辞書をほとんど見なくなりましたね。その代わり、かつて「辞書は読むもの」と言われてきましたが──その延長に「明解」さんもあったように思う──、今、辞書は完全に調べる物になりました。でも、その産物でしょうか、検索機能がとても充実していて重宝になりました。忙しい現代人にはピッタリかもしれません。

▼新学習指導要領で分厚くなる教科書
 ところで、新しい学習指導要領では「ゆとり教育」から完全に脱却して──「ゆとり教育」をどこまで徹底して実施し考察したのだろう?何かいつも中途半端で場当たり的な対応ばかりが行われている気がしてならない──削減された内容も復活し、場合によってはさらに積み上げた学習も行われるらしいですね。大人は「このままではいかん。何とかしなくちゃ」ということかもしれませんが、子どもにしてみれば「やれやれ、もっと大変になるんだあ~」というところでしょうか。その中で、一番大変なのは教科書が3割ほども分厚くなることでしょうか。子どもの側にしてみれば、毎日「広辞苑」を持ち帰りしているような感じかもしれませんね。

▼教科書を止めて電子ブックに換えたら?
 最近、「iPad」が話題ですね。アマゾンの「Kindle」と同じく電子書籍が読める端末ということで。日本での発売には行列もできたとか。これ、学校で使うのに良くないですか?新学習要領の改訂に合わせて教科書を持ち歩くのを止めて、いっそのこと全部キンドルかiPadのような電子ブックに替えてしまってはどうでしょうね。今後は何も重たく分厚い教科書を持ち歩くことはないんです。義務教育で教科書が無償配布ならば、その教科書を電子ブックに替えればいいだけのことですから。

▼教育界には一大事業仕分けが必要
 これって、教育界の大きな事業仕分けですよね。学校と家との往復には、重たい教科書を持ち歩く代わりに電子ブック一冊を持っていればいいんです。これを生徒全員に無償配布するか貸与するんです(宿題もノートも全部この中かSDカードの中です)。そして、卒業時には返却してもらうか安い値段で買い取ってもらうことにします。会社でやっているリースみたいなものですね。
 これでは教科書会社が悲鳴をあげるですって?それは時代の変化でやむを得ないですね。ランプから白熱電灯に代わり、さらに蛍光灯にかわり、さらにまたLEDに代わったように。いつまでもコバンザメ商法の言いなりになっている方がおかしいのです。他のもっと発展した道を考えてくださいと言うしかないですね。
 それよりも注目すべきは、これによって教育界に一大変革がもたらされる知れないってことです。学校教育のあり方そのものが大きく変わるかもしれないということです。

▼「教える教育から考えさせる学習へ」
 その一つは、教材は自分だけのもではなくなるということ。教科書にもうイタズラ書きは出来ないんです(もう、教科書そのものがないですね)。そして、生徒の勉強は教科書だけの学習に限定されなくてもよくなるということです。教科書に書かれていることだけが学習する全てではなくなるということです。必要なら他の出版社の内容を参照することもできるようにもなります。興味の旺盛な子は、学年単位に縛られることなくどんどん勉強してもいいんです。
 そして、教員側の変化も顕著です。学校での教育は「教科書を覚えさせる勉強から生徒に考えさせる勉強へ」と大きくかわることになります。もちろん、教員の役割も変わります。学習内容を上から強制し覚えこませる指導から、生徒の伴走者として関わり、生徒の学習の援助者として関わるようになります。そういう教員側のメリットとしては、もう「何でも知っている先生」を演じなくてもよくなることです。生徒と一緒に考える存在になればいいんです。あっ、でも、こういう風に生徒の考えをうまく引き出したり、コーディネートしたりする役割の方が先生には大変だったりして。
 いずれにしても、先生には「ゆとり」ではなく今まで以上に自己研鑽に励んでもらわなくてはなりませんね。先生は親に教育を委託されているプロなんですから。それで生計を立てているわけなんですから。

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ある市P連の会報とコロンブスの卵:10年前に話したことが(2)

2010年05月11日 | 教育全般

ある市P連の会報とコロンブスの卵:10年前に話したことが(2)

▼学校的時間と空間
 一方的に批判するのは私の趣味ではないが、「学校というところでは、どんな時間が流れているのかなあ」ということがとても気になる。私も消費期限や賞味期限のある話をしたつもりはないけれども、10年前に話したことを、今炊き上がったご飯や年代物の極上のワインのように話すことには抵抗がないわけではない。いや、これは話し手の問題ではなく聞く側により問題があるのだろう。その人たちは多分、話し手の地位や権威まで調味料に加えて美味しくいただくのだろうから。
 でも、万人に受けるどんなに素敵な話をされても、あるいは逆に極めて個性的な話をされても、あるいはまた心血を注いだ訓話を語ったとしても、「とっても結構なお味でございましたわ」的なまとめ方をされるならば、そこには保守もなければ革新もない、ただ「別に、どうってことも…」という事なかれ的な時間が流れ続けるだけであろう。おそらく学校というところもそういう時間の流れているところなのだろう。だから、10年前も今も大して変わりもなければ、変換可能なくらいなのだ。
 だから、その空間に「ノー」と言って飛び出して行った生徒や死を賭するほど悩みに悩む生徒がいるなどということは、「何かの間違い」で我が子が不登校にでもならない限り(不謹慎な言い方でゴメンなさい)、到底思い浮かぶ事柄ではないのだと思う。

▼「遊びの教育学」と「オリジナル」ということ
 「ところで、いったいお前は何を話したんだ?」と聞かれそうである。そう、肝心のことをみなさんにお話するのを忘れていた。それは「遊びの教育学」という話である。そう聞けば、ある人は「何だ、そんなことか」と思ったかも知れない。
 10年前と違って、今では幼児教育の園長さんや障害児教育の実践家だけでなく、大学で学生に教えを垂れる立場にいる方まで、本屋や図書館に行けばその実践報告や関係書物が結構目に付くようになった(10年前には、養護教育など、障害児の関わりに焦点を当てたものがほとんどだった)。中には、「遊びでIQ140」なんていうものまである。インターネットでも溢れている。「遊び」の価値がようやく復権されつつあるのかな~とも思う(それでも、まだ「教育」の本質と真正面から向き合ったものは少ない)。
 で、ちょっと興味を惹かれて覗いてみると、「あれ~、これは前に自分が言っていたことと…」というようなものもないわけではない。むしろ、市P連に書かれた教頭先生のように礼儀を尽くして連絡をくれるような方が珍しい。でも、自分は売文の徒ではないし、若い頃、「オリジナルとは…、著作権とは…」なんて愚にもつかぬことを考えたこともあるので、普通はあえて目くじらを立てるような野暮なことはしない。

▼「コロンブスの卵」と神話
 そう、いつもそうなのだ。「コロンブスの卵」と同じことである。彼はみんなと反対に西へ西へと向かい、アメリカ(西インド諸島)を発見した。「西へ西へ?そんなら俺でもできた」と人々は言ったそうな。そこで、「では、これはどうだ」と言って、コロンブスは卵を見せた。「これを立ててみろ」と。誰も卵を立てられない。横に倒れてしまう。「そんなの立つわけがないじゃないか」。そこでコロンブスは「こうするんだ」と言って、卵の底を割って立ててみせた。すると「何だ、それなら俺でもできる」と人々は言ったそうな。
 みなさんも知っているお話だろう。この話と同じである。「人が歩けば道になる」と言うけれども、「道なき原野に道をつける」ことは容易ではないのである。
 (後に、この話から今度は「卵は立たない」という神話が生まれたそうな。さらには「立春の日だけ卵が立つ」と言う神話が。が、実は、季節に関係なく、卵は辛抱強くやれば立つのである。何事も実際にやってみなくちゃね)

※お後がよろしいようで(話がエンドレスになりそうです)。

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(文責:ganbarujan)


新「日本教育考」(1)ーなぜ「学力低下」なのか?

2010年02月19日 | 教育全般
新「日本教育考」(1)ーなぜ「学力低下」なのか?


▼PISAに表れた日本の子ども達の「学力低下」問題
 日本人の子ども達の「学力低下」が本格的に問題になり始めたのはOECD加盟国による第2回目のPISA(2003年度学習到達度テスト)辺りからではないだろうか。その結果が発表になったのは2004年の暮れ。
 「PISA調査では、義務教育修了段階の15歳児が持っている知識や技能を、実生活の様々な場面で直面する課題にどの程度活用できるかどうかを評価。」とあり、「2003年調査では数学的リテラシーが中心分野。読解力、科学的リテラシーを含む主要3分野に加え、問題解決能力についても調査。」とある(共に、文部科学省のホームページ、文部科学省生涯学習政策局調査企画課から)。

▼文部大臣の考えた「学力低下」の処方箋とは?
 この時の文部大臣は中山成彬氏。日本のマスコミが一斉に日本の子ども達の学力低下に警鐘を鳴らした時、彼が考えついたことはただ学校の授業時数を増やそうとしたことだった。これだけ教育熱が高く、塾産業が隆盛をきわめている日本において「なぜ、学力低下なのか!?」その根本原因に迫ることもできず対処療法として示された処方箋が学校の授業時間を増やそうでは余りにもお粗末。これが文部大臣とは聞いて呆れるばかりだった。日本の教育の病理を腑分けする能力もなければ陣頭指揮する能力もない。実は子どもの学力低下だけの話ではないことを彼自らが体現してくれた格好だった。彼自身がただ時代遅れの観念の遊戯に酔いしれているだけだったのだ。

▼「生きる力と学力低下」のシンポジウムの開催
 日本の教育状況について無知をさらけだしたようなそんな中山文科相の反応は、日本の不登校の子ども達の支援活動に携わり、かつフリースクールを運営していた私には、半ば想定内の反応ではあったとはいえ、やはり大きな驚きであった。しかし、指導的立場にある人がどんな思い違いをしていようと、現場の人間としては子ども達と接している日々の活動を抜きに考えることはできない。現場から、特に学校教育から排除された子ども達の視点から現今の教育を問い直すことは等閑に伏せないことであった。
 そこでPISAのテストで連続してトップの成績を収めたフィンランドの教育改革に日本人として大きな貢献をした早稲田大学名誉教授の中嶋博さんをお招きし、佐々木光郎さん(『いい子の非行』の著者)と私との3人でNPO法人教育ネットワーク・ニコラ主催の教育シンポジウム「生きる力と学力低下」を開催したのだった(2005年3月27日、埼玉会館にて)。

▼日本の教育の病理の腑分けを
 あれから何年経ったのか。少しでも子ども達の学習環境は向上したのだろうか。「学力低下」解決の方途は見つかったのだろうか。「ゆとり教育」批判や「総合的学習」の見直しと削減などに伴って、子ども達への勉強の荷重が一層増したように見えるのはなぜか。
 しかし、授業時間を増やせば(なぜか土曜日復活論議が盛んだ)日本の教育の根本問題が解決するというわけでもあるまい。PISAでトップを維持しているフィンランドの教育の秘密を探るべくフィンランド詣でも結構だが(日本のように必要以上に学校に縛り付けず少ない時数で教育効果をあげている実態をこそ知るべきだ)、やはり日本の教育は日本の社会特有の問題を腑分けすることから始めるべきであろう。
 文科省だけでなく各地の教育委員会を先頭に、全国教育行政において膨大な費用をかけて不登校対策を行ってきたはずである。学校教育法外であるという理由で、フリースクールにはほとんど見向きもせずに。しかし、それでどれだけの教育効果があったというのか。雀の涙ほどの成果を大々的に喧伝しているだけではないか。それは事業仕分けの対象となるべきではないか。

▼政権が代われば教育も変わる?
 政権交代を成し遂げた今、教育も変わべき大きなチャンスを迎えたと言える。教育は政治や宗教から独立しているとは言え、長期政権の政策に大きく依拠してきたことは否めない。畢竟、教育の不偏不党・独立ということは建前に過ぎない。そこでは、文科省を頭として全国の隅々に到るまで自民党政権の意向が色濃く反映した教育が行われてきたということは否定のしようがない。日教組や全教などの教職員組合の切り崩しもその一つであった。
 政変によって民主党を中心とする政権に切り替わったが、その民主党のバックには日教組の組織もあったと言われる。では、政権が変わったことで日教組主導の教育が展開されるのかというと、やはり教育はそんなに単純なものではない。政治が大きなうねりで変わろうとしていても、教育がそれに連動するとは限らない。

▼今までの言い訳が正当化されかねない
 端的に言うと、日本の教育の問題は依然として未解決のまま残っているということである。いやむしろ、今までは「文科省が…、教育委員会が…、校長が…」という形で言い訳されてきたことが、権力の逆転現象によってそのまま正当化され、開き直られかねないとも思っている。
 例えば、小中学生など義務教育段階の子ども達が学校に行かなくなり不登校状態になると、なぜ公的な教育費が家庭にも本人にも一銭も回らなくなってしまうのか。それは本来個々の子どもの教育のための公費であったはずである。それが教師の人件費に消えてしまっていい筈がない。それこそ税金の無駄遣いとして事業仕分けの対象となるべきではないのか。
 そういう矛盾していることが、政権交代後も教育界には依然として多いのである。もし、民主党が国民の声を真剣に聞くというのであれば、ただ学校を離れ、学校には行けなくなった、学校には行きたくないという子どもの言動に児戯に類する反応をしたり、心のない形だけの不登校対策を行う前に、教育棄民の状態に置かれている本人やその家族の呻吟に耳を傾け、あたら若い可能性を潰しかねない教育の現実にこそ目を注ぐべきではないのか。そういう現実には見向きもせず国民の声を聞くといっても、今度は国民の側が聞く耳を持たなくなることであろう。

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前例主義に拘る憂うべき日本の風潮

2010年01月28日 | 教育全般

前例主義に拘る憂うべき日本の風潮

▼前例のないことに挑戦した開拓者たち
 先のブログ「学力とは何か」に書いたときに書き忘れたことがある。それはそこで紹介した人たちはみな「前例のないことへの挑戦者たち」であったということだ。人を惹き込み納得させる個性や思考はそこから生まれている。
 今、根絶することが難しい病原菌のように「みんな一緒」の悪しき集団主義が日本の教育界やマスコミを支配しているが、そういう中からはこういう輝かしい個性は生まれないのではないかと思う。彼らはそういう環境や風土の中にあっても、それに押し潰されることのない強い個性の持ち主たちだったとも言えるのかも知れない。しかし、それは彼らが教育界やマスコミ等の支配的な風潮に抗し、時には反旗を翻しながら、自身の思いを貫き通してきたから可能となったことなのではないか。

▼「出る杭」を異端として排除する教育界やマスコミ
 いつものことだが、教育界やマスコミはそういう強烈な個性の持ち主の成し遂げた業績を賞賛し国家国民の栄誉のように褒め讃える。けれども、彼らがそれを大切な行動原理として自ら体現したり積極的に推進してきたとはとても思えない。「出る杭は打たれる」というコトワザがあるが、むしろ日本の教育界やマスコミはそういう個性を叩き潰すことに極めて熱心であったし、今もまだそうであるように見える。
 そういう場合には「国民の声」に従うとか「国民の声」を代弁すると言いながら、その実は己の狭量の器に合わせた独善的な論理を振りかざしていることが多い。彼らの許容度、想像力や理解力を超えた現実が立ち現れると、彼らはそれを見守り育てる側に回るのではなく、「正論」を体現する者として、そういう人たちを異端として叩き潰す側に回って来たのである。

▼マスコミがいう「国民の声」とは何か
 たとえば、「みんな一緒」の学校教育の風潮に洗脳された子どもたちが少しでも「毛並みの違う仲間」を嗅ぎ出しいじめ、さらには不登校に追い込むように、学校教育やマスコミの中には個性ある者たちや変革を志す者たちを押し潰そうとする空気があるのは否定しようがない。彼らは平時には国民の声、つまりは世論の代弁者の如く振る舞い、その役割を自らのステイタスとしているが、ひとたび乱世となり国民の多くが変革を志向し実践し始めた時には、後ろ向きの警世の大文字を火の付いたように声高に叫び始める。そして自分たちの偏狭な主張があたかも国民の声でもあるかのように書き立てるのだ。
 しかし、彼らの主張と国民の声が明らかに違うことが隠しようもなく露わになることもある。その時には、あろうことかマスコミの一部には「国民が間違っている」「国民の判断・選択がおかしい」とまで言い出す者まである。たとえば、沖縄県民の動向を見守るため決定を先延ばしした普天間基地移転問題についても(つい最近、名護市で移転反対派の市長が誕生した)、アメリカに取材に行った某新聞記者が「『私たち』は延期に反対している」という趣旨のことを言ったとか。日本政府を押しのけてまで新聞記者が主張する「私たち」とは何なのかマスコミは往々にしてそういう偏光フィルターを通して記事を作り上げ、それがあたかも世論であるかのように報道することもある。ここには明らかにマスコミによる意図的な世論操作がある。

▼未来に夢や希望を持てない日本の若者たち
 戦前戦中の時期、国民に真実を隠蔽したマスコミの大政翼賛的報道や戦後の民主主義を装った国家主義的全体主義的報道や学校教育のあり方を見るまでもなく、今までのマスコミ報道や教育は何を目的に、どんな未来の国家を志向して営まれてきたのか、今一度改めて問われなければなるまい
 今までの日本は独立国家よりは属国志向、愛国を称えながら実は亡国の勧めであり、国民主権を称えながら実際の「公」(パブリック)の主体は国家や市場原理にあり、次代の日本を担う社会人を育成すると言いながら権力や権威に物言わぬ羊のような国民を大量生産し、時の為政者に都合の良い国家運営をしてきただけではないのか。
 そして、結果として我々国民は、未来に夢や希望を持てないだけでなく、現在今生きているこの社会にさえ明確な目標や役割を見いだせない多くの若者達を排出するに至り(国際社会の中で、日本ほど若者たちが夢や希望を失っている国はない、それなのに多くの若者は羊の如く「つぶやく」だけで、その根本原因を問おうとはしない)、国際社会の中で斜陽の一途を辿ることになったのだ。

▼政治が変われば教育も変わる?
 本来、教育に携わる者は政治には口を出さない方がいい、問題がこじれ、あらぬ方向に行かぬとも限らないと考えて、自主規制してきた部分がある。しかし、それで教育の何が変わっただろうか、政治の何があるべき方向に向いただろうか。
 今まで自分なりに謙譲を徳と考え、事を荒立てぬことを旨としてきた部分がないわけでもない。そういう中で自分なりの道を追求してきた。しかし、もはや今の日本に謙譲を美徳とする風潮は基本的にない。退けばその分相手は押して来るだけである。悲しいことだがそれが現実だ
 未来への想像力を失ったマスコミは、旧態依然の価値を振り回してますます矮小化の一途を辿り(権威をバックにした一方通行の情報が尊重されなくなったのは、単にインターネットのせいだけではあるまい)、教育では旧来の自民党・文科省・各教育委員会の域を超えて民主党・日教組路線が強まるという逆転現象が起きてきている。が、それによって教育方針が即座に180度変わるとは到底思えない(教育が政治とは無縁ではないとしても、風見鶏のように風向きによってくるくる変わるとしたらそれも恐ろしい)。かえって今までの教育実践の不備が正当化されかねない危険さえある。そして、実際にそういう兆候は見えている。

▼教師には「先ず隗より始めよ」と言いたい
 そういう社会の現状に、今後は教育を享受する子どもという独自の視点から積極的にコミットしていくことも必要だろう。沈黙は金でも銀でもない。それは昔の戯言である。今は沈黙は現状の是認に他ならない。ヘタをすると教育は今後、教師主導でますます悪化の方向を辿らないとも限らないのだ。
 今一度、考えてみよう。フリースクールで子どもたちの側に立つ者は、今まで現状の学校教育に「ノー」という行動を取った子どもたち(これは別の意味で個性的な勇気ある行動だ)を支援して来たし、今後もそうである。学校が子どもが主役の教育の場とはなっていない限り、今後も学校教育を見る目が根本的に変わることはないだろうと思う。
 もし、学校教育を根本から変えたいのであれば、まずは学校を解体することからはじめなければなるまい。幸いにして学校教育の改革を唱える教師がいるならば、「先ず隗より始めよ」と言いたい。机上の空論はもういいのである。今回の政変が良かったのは、もう言い訳は通用しない時代が来たということにある。そういう思いを一層深くするこの頃である。

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