国力の衰退と経済の復興が文化を規定するような見方は正しくない。民族の伝統と人々の生活があれば、2000年の歴史を背景に、そこに文化ははぐくまれる。民族の文化に伝統文化を見るが、経済とともに文化論があるのはなぜか。経済文化はことばとして熟さない。ここでその思いに、メセナ mécénatを連想する。それは、企業が主として資金を提供して文化、芸術活動を支援することであると解説する。 さらには冠名をかぶせたスポンサーつきの芸術活動ともみられる動きがあるようである。1990年に社団法人、現在は公益社団法人、企業メセナ協議会が発足して、企業メセナ協議会は、芸術文化振興による社会創造と定義しているという。その具体的活動に文化が現れるのであろう。欧米の活動に刺激されての、欧米ではメセナは比較的早くから始まったというふうにとらえている。1967年に設立されたアメリカの企業芸術擁護委員会(BCA)、1976年に設立されたイギリスの芸術助成協議会(ABSA)、1979年に設立されたフランスの商工業メセナ推進協議会(ADMICAL)などの団体が活動しているという。ウイキペディアより。文化が企業の支援を受ける、それは社会への還元の活動と位置付けられて、経済の動向に合わせたようなとらえかたは、時流として一致することであった。文化がさまざまに彩られることになる。経済活動に日本穂復興後のことがあるので、メセナは画期の現象である。 . . . 本文を読む
夏目漱石、夢十夜、1908年の7月から8月にかけて朝日新聞紙上で10回連載されたそうだ。それを、現代によみがえらせる、小説本文は現代仮名遣いの岩波文庫版に準拠ということである。 . . . 本文を読む
まんじり この語感は、まなじりに近い。まんじりとする とあれば、まなじりを閉じるようにも聞こえる。まなじりを開く、まなじりを決する、などの慣用句を意味内容から見れば、まなじりを上げる形に見える。隈取をした役者の目の演技を連想させる。そうすれば、まなじりをまんじりとするのは、軽く目を閉じたようなことか。したがって、まなじりをそのままにして、まんじりともせずいるのは、目を見開くさまに見える。まなじりとせず まんじりとせず まなじりは目の後目であるから半眼でもあろうか、そのようにしないこととなる。 . . . 本文を読む