原稿箋をもって書く練習をするのがよい。日本語を縦書きとしたのは筆記具、用紙のことから習慣としたものでえある。長く、専らのことで亜ttのであるが、文書編集機の便利さから、世にいうワープロの出現は、日本語の書記に新機軸となった。その約束事は縦書きのものを横書きにしたようなことであったが、実は、漢字かな変換の便利さには表記、加えて、区切り符号、そして書きやすさと読みやすさに革命的であるから、文章そのものに工夫が現れる。手書きと、タイプ打ちによる文字は、その世界を一変しているから、筆記具の代替に、印刷物となったことは、ある側面をもたらした。ペンと紙を使ってきた文明の道具に、電子情報という時代の記録を作りだし、それを共有し伝播する情報の新時代となったのである。 . . . 本文を読む
面従腹背のストーリーである。繰り返し、老論派と一方の勢力としての王妃側の策略は、これは、いったい全体、どうなっているのかなと、遅ればせながらのドラマの感想で、そのしつこさにははまってしまうようなことである。面従後言、面従腹誹などと、これをクライマックスにするとなれば、儒教精神の象徴がここに解釈としてあるのかと、わが思考を思いなおす。我が国にも、この語を座右の銘と据えた高級官僚がニュースになったことを思い合わせたりして、組織人間の持つ権力への執着であるから、それをそのままに、歴代大統領が罪人となり極刑を受ける国情をむべなるかなと、民主主義になっているはずなのだが、よくわからないことが、少し見えてくる。 . . . 本文を読む
春過ぎて夏きたるらし、夏来にけらし、はて、すでに来てしまったようだから、持統天皇、645~702、第四十一代天皇の御製は、直叙、なつきたるらし、となり、衣干したり、とあって、これがどう見えたかと文学が実験する。時を経て、百人一首にも見える、なつきにけらし ころもほすてふ、となると、それがどうであったかは、自身の衣でわかることになって、後世の書き換えは技巧に過ぎる、というようなことになるのであるけれど、そこに百人一首で人口に膾炙すれば、聞いただけのことになってしまう。サイトの参考にあったのは、わが師匠の名前であったから。さてさて、暑さも真夏日になると言う。気象異常だとまで思ってしまうから、早いめぐりに、この快晴は人生70年で何回目だろうとか、息災延命を感謝する。延命息災をともに祈り、無病息災はどうであったか。>頭寒足熱は延命息災の徴と傷寒論にも出ているとおり、<夏目漱石・吾輩は猫である>
「衣ほしたり」→「衣ほすてふ」
衣を替えて半そでで過ごす心地よさである . . . 本文を読む