倫理を問うとは人の生き方を明らかにすることである。その生き方は、人として正しい生き方持ことであり、それを問うとは何かを目指して正しく生きることであるから、その何かを設定してそれに向けた人間の行為を明らかにすることになる。道徳が実践にあるなら、倫理はそれを跡付けた、やだしい生き方の行為の論理となる。しかし多くは、議論を通してこれからを見据えようとするので、その目標によって、人倫についての基本、それが人間性とも呼ばれ、人権ともとらえられる。人間が正しく生きることは倫理に添うことであるが、それを主張することは人間としての義務であるから、その権利を据えることにまる。生き方の目標は何に在るのだろうか。思い起こせば、倫理としての実践に哲学的思索を始めて、君たちはどう生きるか、というのを、読みあさったのは思春期の入り口にあったころである。10代になって中学生のころ、おなじく、ラジオ放送の倫理学入門の話に耳を傾け、いまいうところの生涯学習の講座には公民館に出かけて青い坊主頭をみせていたし、読む本は禅の名言集だったりして、座禅を組む真似をしては兄弟をあきれせた。 . . . 本文を読む
1991年の湾岸戦争で、日本は多国籍軍への協力などで130億ドルを出したが、資金だけだとも批判された。
クウェート政府は米紙への広告で30カ国に謝意を示しながら日本を挙げなかった・・・
湾岸戦争と日本の拠出金 - GEOCITIES.ws
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湾岸戦争と日本の拠出金. 湾岸戦争で日本政府は、イ . . . 本文を読む
文法で語形変化をすることを言う。その変化は文法によるものとして、語の用法の違いによって現れると云解説が一般である。それを体系的に示す活用表が語によってつくられる。その説明で学校文法は動詞の活用表を整理して覚えやすくしたものであるが、その便宜において、説明の原理がとらえきれない、あるいは説明が与えられないということで、その活用表を基にしての議論が繰り返されている。いわく、語形の語という最も基本となる単位のとらえ方をしようとしない批判である。語を構成する自立語と付属語を理解しないままに、語の活用を活用表のいわば、変化する枠内だけで、活用表の整理の方法をわかろうとしない。文語文法と言い、口語文法と言っても、そこに現れる日本語の活用は整理されたものとして、表示去れた全体を、すでに、わたしたちは運用しているところがあるので、仮名文字による分析という発音のレベル、音韻を知れば、それで十分なことである。整然とした体系において、その原理による方法をすべて理由をもって説明できるのは、やはり文法学者であるわけだから、学校文法はその分析を受けたわかりやすいものとしての説明があってしかるべきである。なぜ付属語を持っている日本語の現象で、動詞の一つを見ても語構成を正しくとらえて教育できないのか、言語を扱う教師の説明不足であるに過ぎない。 . . . 本文を読む