二つの政党を以て2大政党と言い、それが政権のバランスを生み出すというもので、保守と革新ではない、保守と保守であっても、そこに交代を演出する構図は、政治をシーソーゲームで展開するようなものだ。米合衆国の共和党と民主党の政治実現にモデルを執って、保守のなかから分裂したのが自由民主党の動き、それはその一つが新進党となって、政権を交代させて、2大保守のもと進かに見えたが、結局は、民主政治をうたう勢力にあって今は民進党として引き継がれるものがあった。それこそ野党に内在する群雄割拠が労働者による政党を目指す方向へと保守政治の転換を図ろうとしたが、またもやそれが分裂をしている。自民党に対する政治は、労働組合のものによる、それがかつては社会党であったのだが、社民党となり勢力の衰退は組合が党を推戴する動きを変えたからである。そこへまた民進党はその内部に分裂を抱えて、3分、4分して、寄り合い所帯と言われてきたように、その一つにはなりえない状態となった。政治勢力がどう変わってきたか、そこにはファーストを名乗る政党が変化を呼んでいるように見えるが、果たして。議席あっても、それが必ずしも2大政党とはなりえないのは、政策と手法が受け入れられるかどうかである。自民党が存続し、そこに分裂騒ぎを起こしてきた議員たちによる政党は構想になにを訴えるつもりだろう。 . . . 本文を読む
親孝行をする説話がいかにも日本的となったか、それにもまして、祖先を祭る行いである。親類縁者が顔合わせをする習慣が定着して盆の帰省となった。これはいつのころからかとなれば、故郷を離れて都会で働くということが始まった日本経済の一コマからだろう。集団就職という語で社会現象となった働き手の移動による集中はその思いを加速させて盆暮れの休暇に里帰りをする。それが昂じて、帰省列車の話題が今は道路渋滞の情報となって社会現象が引き継がれる。家族が自立する子の世代に核家族化する様子もあった。戦後の政策で経済の高度成長を図った計時あの転換がもたらしたものだろう。所得倍増がその弾みをつけていた。>日本経済が飛躍的に成長を遂げた時期は、1954年(昭和29年)12月(日本民主党の第1次鳩山一郎内閣)から1973年(昭和48年)11月(自民党の第2次田中角栄内閣)までの約19年間である。 >1960年に池田内閣の下で策定された長期経済計画である。閣議決定された際の名称は国民所得倍増計画(こくみんしょとくばいぞうけいかく)という。この計画では、翌1961年からの10年間に名目国民所得(国民総生産)を26兆円に倍増させることを目標に掲げたが、その後日本経済は計画以上の成長に至った。立案は経済学者の下村治。ウイキペディアより . . . 本文を読む
祖先を敬うこととは
2006年08月15日06:40
朝の6時半のニュースで午前7時40分ごろに首相の参拝するニュースが流れた
就任後から毎年、公人としての参拝を公約だからと繰り返した5年の挙句に、在任期間の今年の敗戦日に行動する
台風が近づき大きな雨粒が降り始めた靖国神社の映像が流れる
いまから約1時間あとに日本の将来は二つの道を進み始めることになる
国の代表者が靖国問 . . . 本文を読む