音韻論における音素分析は音声のより詳しい記述をおこなう。単音をいかに析出し、それが語中でいかに音声として、ことばの使い方に構成されているかを議論する。音韻を文字表記から、/でくくって了解することを、それはIPAで示されることが共通の理解となることであるし、それに加わる補助記号の多くが、語の弁別に働くかどうかを議論する。その現象を機械音声、聴覚音声で記述する方法も、IPAによらなければ、議論の内容をこまかく、理想的にすることができる。その音素分析の一方で、音節を単位とする捉え方ではどうなるか。その表記に仮名文字を用いる日本語は音節での分析が可能となる弁別機能を見ることになる。漢字表記をして同音異義の語を区別できるからであるが、コミュニケーション上に共有する情報が仮名文字発音で実現している。 . . . 本文を読む
音韻の単位にモーラがある。モラ mora という。韻律用語で、具体的に抑揚あるいは音調、強勢、音長、リズムなどのうち、韻律の単位にモーラがある。音節として見るが、さらに文にある単語、句、節などがある。音韻論上、一定の時間的長さをもった音の分節単位として、日本語では仮名文字の発音に充てると、丁寧な発音にモーラが意識される。母音、子音と母音、子音と半母音を介した母音の音表記になるが、いわゆる撥音、促音にも時間の長さが分析される。長音の引き音節にも、同様に分析することができる、撥音、促音、長音をそれぞれ単独にして特集音節また特殊モーラ音節とする。 . . . 本文を読む
発音は異なるが同じ音になる、というのは、説明にならない。発音では同じというのは、音声として分析されて、個々の音となるものが、同一の音とみなされるものである。しかし、発音が異なるとそれは言葉の違いになるということであるのは、わたしたちは音声による違いで言葉の意味を捉えているからである。そこに、発音が同じでない、発音は異なるが、音韻では同じになるという分析が行われると、それはどういうことだろうかと、音声という概念と、音韻という概念のことをあらためて、議論することになる。言葉についてみれば、発声して音声が伝達されてそこで話し手と聞き手とガやり取りをすれば音声、音韻ともに実現することである。ともに同じ発音をしていると思っているところで、同じ音声に聞こえてやり取りが成り立つのは、その言葉の内容がともに理解できるからである。もし、発音が違って聞こえれば、その発音で伝えようとする言葉の意味が相手にとって別のものになってしまうと、コトバが機能しないことになるか、別のことを言っているというのでなくて意味が伝わらないから、わからない。言語学習の段階でふつうに起こることである。音声が同じで音韻が違うというのは、発声は個人によって微妙な違いを起こしていても、音韻の発音でもって意味の伝達を行っているということであることがわかる。 . . . 本文を読む
ひとつの言語内で、これは日本語のことで、音韻が体系をなす、世代で受け継がれる、有限個である、意味の区別に抽出される、音素を最小単位とする、地域の言語ごとによる、抽象された音声である、脳内に発音をしている、異音を持つ、単語によって現れる、というふうになる。国語の音韻として、日本語音韻に当てはめてみると、意味の識別に弁別する発音は、国語音韻でとらえるのは音節である。仮名文字であらわす発音が弁別的特徴となる。音素と、音節と、さらには語のレベルで音韻が働く言語があるようである。 . . . 本文を読む
日本語の音韻は 音素レベルで行うとすると、国語の音韻は仮名レベルで行うと、それぞれの分析法を便宜捉えることになる。そして、音素分析は音素文字すなわち発音記号に、仮名分析は音節文字すなわち仮名のカタカナを種類するとわかりよいようであるが、音韻論の考え方が発音の最小単位である単音をことにすることにあるので、日本語の音韻にも単音表記をするラテン文字すなわちローマ字表記が選ばれる。しかし仮名文字が音節の単位であるから、その音のまとまりを意識するわたしたちには単音でとらえる個々の音に異音を持つという音素の分析が行われる。50音図の発音にタ行はtのほかに、ch、tsの二重子音を持つと解釈して、本来の日本語発音の議論とともに外国語音の影響をとらえることにもなる。同様に、サ行、ハ行、ラ行などを発音をして、訓令式ローマ字表記が統一音の表記にほかならず、ヘボン式ローマ字表記にも英語発音との対応であるかのようでそれで十分ではない側面がある。日本語の5母音に外国語の7または8母音の対比を考えてみればそこにある発音には違いがある。 . . . 本文を読む
音韻論にある議論で、日本語音韻を音素分析することにモーラを前提としてまず考える英語学からのわかりよい論文がある。外国語と接触する日本語音声の具体を取り上げているが、開音節構造を、これからの日本語にどう見るかの分析は興味深いところである。外国語音の影響ということである。
現代日本語音韻における音声学と音韻論の間隙 https://doors.doshisha.ac.jp/duar/repository/ir/24069/008000400004.pdf 現代日本語音韻における音声学と音韻論の間隙. 龍 域 正 明. I 序 論. 現代日本語を論じる際, “外来語"という一面は,最早,避けて通る事. が出来ない程,重要な意味を持っているのは,周知の事実である. 日本語. における外来語の歴史は,古くは, i,英語に端 ... . . . 本文を読む
国語の音韻として議論を思い起こすと、ある文献が欠かせない。そこにあらわされたものが、著作としてまとまるまでの、日本語音韻及び音節、音韻論的解釈、モーラと拍、音韻の単位、そして、丁寧な発音による音韻の発音観察など、とりわけアクセントは著者の捉えるところで、その論考の中を知らしめる書である。発行年月が時代に言えば、1960年代の著者50代のもの、論文についての編集にもある註釈はその所収の論考の成立をつぶさにする。まことにありがたい本である。その文献は、日本語音韻の研究 金田一春彦 東京堂出版 1967年 昭和42年3月31日初版 昭和56年第7版 である。わたしごとに照らせば、学部学生から大学院生になるころ、真綿に吸い込む水のごときに摂取したが、日本語 岩波新書本 という古典名著の文章にある揺蕩いを覚えた記憶がある。 . . . 本文を読む
悠遊漢字学で阿辻さんが言う。>故事から、負け惜しみとして強引な詭弁(きべん)をふるうことを「漱石枕流」と言い、日本語では「ソウセキ チンリュウ」 と。もとは、晋書孫楚伝に見える故事、八世紀に作られたと考えられる蒙求に、孫楚漱石」という表現で取りこまれた、と解説している。さてその頑固者のことであるが、チンリュウは読みの間違い、発音がこうであるというものはいないのかとコラムを結ぶ。どう読めばいいのか、中国語音で枕石漱流の語を、しんせきそうりゅう とするのか、すると、シンリュウソウセキをもとに、ソーセキシンリュウを言い張る者はいないのか、という話題になる。それがなぜに、チンとなったか、音韻のことになる。これも、ジンセキ からすれば、ジンリュウ となりそうなところ、シンは現在の中国人名でお目にかかったりする。枕と沈の文字による連想があるか、枕はしんと流されて、ちんとなって沈んでしまったのだろう、と抗弁をいうか。 . . . 本文を読む
日本語音韻は東京方言を発音のモデルにして仮名文字にあらわしてとらえることができる。仮名文字表記をローマ字表記にして、発音を音節単位から音素単位にして分析すると、言語の音韻をより詳しくすることになるが、異音を分析して仮名表記に現れない音声をとらえることもできる。発音が単語内の音環境によって変わるもので、それを仮名表記で音韻とする日本語では、発音を区別して意識することは少ない。しかし、それを捉えて議論する、鼻濁音になるガ行の音の区別は方言の要素も加えて説明をすることがある。あるいはハ行の転呼による発音の現れ方にも、語中語尾のことではあるが、日本語話者には発音変化のままに発声をしている。助詞「は」の発音は文法制約を受けて、語尾のように、waとして明らかに意識されている。その一方で。助詞「を」については、ア行の「お」と区別する発音ではないので、文法分析に注意されるのは文字表記に現れるか、発話中の語の機能を加えることだけで、明瞭である。音素分析、音節分析のいずれでも、日本語としてのとらえやすさによるところである。 . . . 本文を読む
音韻学書目に、ロシアの言語学者、トルベツコイの「音韻論の原理」が1980年に翻訳出版された。それまで音韻を言語の視点、この謂いは日本言語の音韻学とその延長にある音韻論が乖離していたからであるが、その状況が大きく変化したものでもない。日本語の音韻に求められる日本語教育の具体には、音声言語組織の50音図、モーラ、アクセント、イントネーション、プロミネンス、ポーズにはじまることにとどまらず、日本語の変化、それは音声における拡大50音図にも表れて、外国後、外来語の言語影響を受けながら、日本語音韻の核になる議論は確かだと言えるものがない。 . . . 本文を読む