読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

●更に十一代将軍家斉のこと

2010-11-19 09:46:09 | 歴史
溶姫は十一代将軍・家斉を父に、父の側室・お美代の方を母に、文化10
年(1813年)に生まれた。
父の家斉は、14歳で将軍となり、50年間もその職にあった。
15人の徳川将軍では、将軍在職年数が最長記録だ。
将軍在職年数だけでなく、生まれた子どもの数でも最多だ。
正式な記録によれば、男26人、女27人の計53人である。
『オットセイ将軍』と言うあだ名が有るそうだ。
ただし、当時の医療、衛生水準の低さは将軍家も同様で、半数近くの子は
幼いうちに死去していると言う事がある。

将軍の息子、娘の片付け方は当時の幕府の閣僚の重要な職務で、
将軍・家斉の息子の養子先、娘の嫁ぎ先を決めることに腐心した。
後継者の家慶以外の息子は、大名の養子にしなければならなかった。

将軍の息子を養子に迎えることは、名誉なことでは有ったが、養
子には将軍直属の家臣がついて来る為、下手をすると、お家を乗っ取ら
れる恐れもあったのである。それは、娘を押し付けられる場合も同様だった。
加賀前田家のように将軍家の姫にふさわしい御殿を作らなければならなかった。
もとより、財政難に苦しむ大名には、できれば避けて通りたかった。
前田家が『御守殿』を建てるために、どれだけの費用が必要であったかは
判らないが、結局は領国の農民の肩に負わされる事になるのである。