長男を次期将軍へ
吉宗は、側室との間に三人の男子が居た。
紀州家当主時代に京都の公家から正室を迎えたが、
正室は子をなすことなく、4年で死去した。
吉宗の長男は幼名を長富丸といい、九代将軍家重(いえしげ)となった。
家重は、幼少から言語障害を持っており、そのため、大部分の側近たちは、家重の言うことを理解できなかった。
しかし、一人だけ家重の話を理解できる者がいて、名を大岡出雲守忠光といった。
『名奉行』として名高い大岡越前守忠相とは同族である。
大きな権力をふるったが、忠光は歴史に悪名を残すことはなかった。
次男の小次郎が、吉宗が紀州家当主時代に生まれ、有能であった。
兄の長富丸とちがって、幼少より言語明晰であったため、兄よりも有能で
あると周囲から見られていた。
吉宗の側近の中には、後継者として、長男よりも次男がふさわしいと見る
ものも多かった。
しかし、父の吉宗は次男の小次郎を次期将軍には選ばず、長男を選びんだ。
なぜ、長男を選んだかは、歴史の謎となっている。
当時は、江戸幕府が成立して、すでに100年以上を経過しています。
幕府も大名家も組織で動く時代になっていた。
もはや、名君を必要とする時代ではなくなっていた。
吉宗は、次男の小次郎に江戸城の田安門内に屋敷を与えて、田安宗武(た
やす・むねたけ)と名乗らせて、田安家の始祖とした。
う
御三家に代わって御三卿の始まりとなる。
さらに、吉宗は三男の小五郎には、一橋門内に屋敷を与えて、一橋家を創
設させた。
小五郎は一橋宗尹(ひとつばし・むねただ)と名乗らせ、
さらに、家重の次男・重好(しげよし)に、田安家、一橋家と同格の清水
家を創設させた。
この三家は『御三卿』と呼ばれ、本家に次期将軍候補がいなくなった場合
の『予備軍』とされた。
この処置により、吉宗は自分の子孫で将軍職を独占するつもりであったと
考えられる。
吉宗は、側室との間に三人の男子が居た。
紀州家当主時代に京都の公家から正室を迎えたが、
正室は子をなすことなく、4年で死去した。
吉宗の長男は幼名を長富丸といい、九代将軍家重(いえしげ)となった。
家重は、幼少から言語障害を持っており、そのため、大部分の側近たちは、家重の言うことを理解できなかった。
しかし、一人だけ家重の話を理解できる者がいて、名を大岡出雲守忠光といった。
『名奉行』として名高い大岡越前守忠相とは同族である。
大きな権力をふるったが、忠光は歴史に悪名を残すことはなかった。
次男の小次郎が、吉宗が紀州家当主時代に生まれ、有能であった。
兄の長富丸とちがって、幼少より言語明晰であったため、兄よりも有能で
あると周囲から見られていた。
吉宗の側近の中には、後継者として、長男よりも次男がふさわしいと見る
ものも多かった。
しかし、父の吉宗は次男の小次郎を次期将軍には選ばず、長男を選びんだ。
なぜ、長男を選んだかは、歴史の謎となっている。
当時は、江戸幕府が成立して、すでに100年以上を経過しています。
幕府も大名家も組織で動く時代になっていた。
もはや、名君を必要とする時代ではなくなっていた。
吉宗は、次男の小次郎に江戸城の田安門内に屋敷を与えて、田安宗武(た
やす・むねたけ)と名乗らせて、田安家の始祖とした。
う
御三家に代わって御三卿の始まりとなる。
さらに、吉宗は三男の小五郎には、一橋門内に屋敷を与えて、一橋家を創
設させた。
小五郎は一橋宗尹(ひとつばし・むねただ)と名乗らせ、
さらに、家重の次男・重好(しげよし)に、田安家、一橋家と同格の清水
家を創設させた。
この三家は『御三卿』と呼ばれ、本家に次期将軍候補がいなくなった場合
の『予備軍』とされた。
この処置により、吉宗は自分の子孫で将軍職を独占するつもりであったと
考えられる。