読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

徳川吉宗の将軍職独占策?

2010-11-05 10:11:05 | 歴史
長男を次期将軍へ

吉宗は、側室との間に三人の男子が居た。

紀州家当主時代に京都の公家から正室を迎えたが、

正室は子をなすことなく、4年で死去した。

吉宗の長男は幼名を長富丸といい、九代将軍家重(いえしげ)となった。

家重は、幼少から言語障害を持っており、そのため、大部分の側近たちは、家重の言うことを理解できなかった。
しかし、一人だけ家重の話を理解できる者がいて、名を大岡出雲守忠光といった。

『名奉行』として名高い大岡越前守忠相とは同族である。

大きな権力をふるったが、忠光は歴史に悪名を残すことはなかった。


次男の小次郎が、吉宗が紀州家当主時代に生まれ、有能であった。

兄の長富丸とちがって、幼少より言語明晰であったため、兄よりも有能で
あると周囲から見られていた。

吉宗の側近の中には、後継者として、長男よりも次男がふさわしいと見る
ものも多かった。

しかし、父の吉宗は次男の小次郎を次期将軍には選ばず、長男を選びんだ。

なぜ、長男を選んだかは、歴史の謎となっている。

当時は、江戸幕府が成立して、すでに100年以上を経過しています。

幕府も大名家も組織で動く時代になっていた。

もはや、名君を必要とする時代ではなくなっていた。

吉宗は、次男の小次郎に江戸城の田安門内に屋敷を与えて、田安宗武(た
やす・むねたけ)と名乗らせて、田安家の始祖とした。


御三家に代わって御三卿の始まりとなる。

さらに、吉宗は三男の小五郎には、一橋門内に屋敷を与えて、一橋家を創
設させた。

小五郎は一橋宗尹(ひとつばし・むねただ)と名乗らせ、
さらに、家重の次男・重好(しげよし)に、田安家、一橋家と同格の清水
家を創設させた。

この三家は『御三卿』と呼ばれ、本家に次期将軍候補がいなくなった場合
の『予備軍』とされた。

この処置により、吉宗は自分の子孫で将軍職を独占するつもりであったと
考えられる。