読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

続、徳川家斉の事

2010-11-16 10:51:47 | 歴史
贅沢に明け暮れたといわれる家斉だが、治世の前半は、将軍と雖も
贅沢は許されなかった時代だった。

父の一橋治済(はるずみ)が奥州白河(現在の福島県白河市)の松平家へ
養子に追いやった松平定信が筆頭老中として、寛政の改革を主導したからで
ある。
定信は八代将軍・吉宗の次男・田安宗武(むねたけ)の七男である。
そして家斉は吉宗の三男・一橋宗尹(むねただ)の孫だ。
定信としては、世が世であれば自分が将軍になっていたかも知れないとい
う意識が有ったことだろう。
さらに、自分の出身の田安家は一橋家より本家に近いのであり、将軍
の家斉を見下すような意識も有ったかも知れない。
幕府財政の再建を目指す定信は、将軍に対しても徹底した倹約を求めた。

最初は世間に歓迎された定信でしたが、改革が贅沢禁止、倹約励行となる
と世間の支持を失った。
倹約による幕府、大名、そして一般庶民の支出削減で景気が冷え込んだか
らだ。
「世の中に蚊ほどうるさきものはなし、ぶんぶ(文武)というて夜も寝
られず」や「白河の水の清さに魚住まず、もとの濁りの田沼恋しき」
などの狂歌が出た。
そして、定信が失脚する原因のひとつとなった問題が発生した。
『大御所』称号問題が有り、それが定信の命取りとなった。
家斉が父の一橋治済に『大御所』の称号を与えたいと考えたことである。
『大御所』の称号には、条件が幾つか有ったのである。

自分が将軍であったこと。

現将軍の父であること。

直系相続で、前将軍が子に将軍職を譲った場合は、一般に前将軍が『大御
所』と呼ばれる。

『大御所』称号問題は、養子となって将軍職についた場合に発生する可能
性がある。
これまでで、前将軍の養子となった将軍は以下の者だ。

五代 綱吉
六代 家宣
八代 吉宗
十一代 家斉

綱吉の父は三代将軍・家光で有り、この称号問題が発生する事はない。

家宣の父は、家光の次男・綱重(つなしげ)だが、家宣が父に『大御所』
の称号を望んだ記録はない。
吉宗は、紀州家二代藩主であった父・光貞(みつさだ)を『大御所』にし
ようとは考えなかった。
しかし、老中筆頭の松平定信は、断固として大御所の呼称を拒否した。
これにより、定信は家斉の支持を失った。
さらに、一般庶民ばかりでなく、大名、武士の大部分が改革を支持しなく
なったことが大きく影響したであろう。