読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

私訳 歎異抄

2007-10-18 10:40:16 | Weblog

五木寛之の「私訳 歎異抄」と言う新刊本を新聞の広告欄で見つけた。数日して親戚の法事に出掛けると、その法要の席で住職の説教が有り、その中でこの本の話が出た。もう読んだ人があるのかと驚いた。その本のタイトルをメモして最寄の図書室へ行き、貸し出し予約用のリクエストカードに記入して帰って来た。一週間ほどしてその図書室から連絡が有り、その本を借りることが出来た。その本の中で作者が言っているように歎異抄の解説書は多くあるが「親鸞と言う人の思想と信仰は一般にはこの一冊によって伝えられ理解されたと言って良い、人は親鸞自身の著作よりこの歎異抄に触れる事で親鸞の思想に出会ったと感じるのではないだろうか。」としている。現代語訳と共に原典も収められている。

花眼

2007-10-17 14:11:02 | Weblog

「花眼」は「かがん」と読むのだそうだ。詩歌の世界の言葉で、要するに老眼の事を言う。老眼になると眼が良く見えず、ぼやけて却って何でも花のように見えることから来た言葉らしい。詩や短歌では良く使われる言葉だが歌人の道浦母都子さんによれば美しい言葉だが、花顔は美しい顔と言う意味で広辞苑には有るがこの「花眼」は載せられていないと言う。

当て字(宛て字)

2007-10-16 14:12:12 | Weblog

当て字と言うと余り良い意味では使わない。宛て字とも書くが誤字とされる熟語でもそれが定着し広く使われると誤字とは意識されなくなる。「時計」という語もその一つの語であると言う。「時計」は元は「土圭」と書かれ、意味は土を盛りそれに棒を突き刺したものだった。それに因って出来る棒の陽の影により時を知るものであった。後、時刻を計る技術が進歩するにつれ、「時計」と表記されるようになったそうである。ついでながら宛て字の「宛」も当て字だそうで、曲がりくねった様子を言う語でアテ字のアテに使われる言われは全く無い。あてるの訓の「充」と言う文字の変体表記が「宛」と誤って読まれ中世以降「宛」を「あて」と読む事が慣習となり「あてじ」の表記に宛てる事になったのだそうだ。ゆまに書房「書く」の壁から

日本は記録の国

2007-10-14 11:16:14 | Weblog

以前、言語別のブログの数では事実上、世界語である英語のブログより日本語のブログの方が多く34%を占め、最も多い事をブログに書いた事がある。その統計はあるアメリカの統計会社が行ったものだった。その記事は有るパソコン関係の雑誌に掲載されたもので、その統計結果についてその雑誌は日本のブログを書く環境の良さをその理由として挙げていたが私の思いつく理由はそうではなく日本人の記録好きな気質があるのではないかと思っていた。司馬遼太郎が「この国のかたち 5」の中で「日本は世界有数の記録の国である。」と神道(六)の項で書いている事を思い出したからだった。

続「八幡神社」

2007-10-13 13:57:51 | Weblog

この八幡神の”政治好き”は都が奈良から京都へ移されてからも続き、京の南にある男山にこの神も移された。神霊は九州、宇佐の地から勧請され石清水八幡宮と呼ばれた。平安朝初期には伊勢神宮と共に皇室の宗廟となった。「古事記」や「日本書紀」にも名が見えない神にしては破格の出世と司馬遼太郎が書いている。不思議な話だと思う。

八幡神社

2007-10-12 11:26:09 | Weblog

司馬遼太郎「この国のかたち」から
無名から出て中世初頭まで世に注目され続けたのが八幡神だそうだ。記録好きな日本人はこの神の来歴、発展を文献にし続けた。この八幡神は568年、仏教の伝来後、ほどなく大分県の宇佐に出現した。日本特有の神でなく外来の神である。信者の政権への働きかけが活発で奈良朝の大仏造営の際にもこの神が宣託し、東大寺と言う国家機関の中に祭られる事になった。更にこの神は仏教に帰依した。神仏習合がおこり、日本の神々が滅亡から救われた。「普通、外からの文明に支配されるとその地域の文明が滅亡し、その国特有の文字も消える。」とこれは白川静氏の岩波新書「漢字」のなかでの言葉。

「維新の群像」を読む

2007-10-11 10:29:48 | Weblog

「維新の群像」は司馬遼太郎他12人の作家の時代小説の短編集である。時代小説と歴史小説は違うと司馬遼太郎が誰かと対談中に言っていたが、どう違うのかはっきりとは記憶にない。この短編集は「時代小説の楽しみ」九、と副題が有るのでこのシリーズの一冊なのだろう。最初の司馬遼太郎の「桜田門外の変」と次の山田風太郎の「笊ノ目万平衛門外へ」と言う作品では井伊直弼への評価がまるで逆であった。前者は桜田門外の変と言うテロは明治維新への歴史の進行を早めたとし、後者はそのテロを行った水戸藩士らを暴漢として描いている。前者は歴史小説で後者が時代小説の感が有る。

ある法要での話

2007-10-10 14:47:06 | Weblog

作家、五木寛之にあるときから宗教関係の小説や随筆が多くなったと思っていた。ある日、私は親戚の法要に出た折の住職の話で五木寛之のマネージャーをやっていた弟が亡くなり、その後そうした宗教関係の著述が多くなった事を知った。「大河の一滴」「百寺巡礼」「蓮如」などまだそれらの一部しか読んでないが宗教関係の大学の聴講生にまでなり、そうした作品を書いた。海外の寺院にまで及ぶ巡礼は世界的な五木のお遍路に違いない。

小股の切れ上がった・・・

2007-10-09 16:07:37 | Weblog

「小股の切れ上がったおんな」の意味は今でも良くは判らないらしいがこの「小・・・」の小は意外に働き者であるらしい。接頭語に分類されるが十ほどの役を果たしているとか。①物の形が小さい、小島など②程度が少ない、小雨など③年が若い、子犬など④数量が足りない、小半刻など⑤何処となく・・・、小奇麗など⑥憎む、小うるさいなど⑦体の一部に付き表現を和らげる、小腰をかがめるなど⑧語調を整えたり強めたり、小癪ななど⑨軽蔑、小役人など⑩半分、小半日。小股の切れ上がった・・・はこれらのどれにも入らないと井上ひさし氏「日本語相談室」で。男好きのする顔を姿のよしあしに移して言ったものと言う説を取るらしいのが永井荷風とか。

こころの詩

2007-10-07 09:18:51 | Weblog

「こころの詩」は中日新聞にあるコラムで、今日は瀬上敏雄さんと言う方が宮沢賢治の事について書いておられる。その中で、賢治は「農民芸術概論綱要」を書き、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない。」と書いているそうだ。この部分を読んだとき私は浄土真宗の「無量寿経」を思い出した。阿弥陀如来が法蔵菩薩といったころ世自在王仏に48願の約束をした。つまり全ての人が悟りを得ないうちは自分も仏にはならないと言う事だ。宮沢賢治は日蓮の研究者で「雨にもまけず・・・」のあの詩も法華経の精神に貫かれているが賢治が世界が幸福になれなければ個人も幸福にはなれないと言っている事は、この無量寿経の48願と一致するのではないかと思った。