牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

向こう岸へ

2017-08-16 18:54:59 | Weblog
詩篇62:1ー2 私のたましは黙って…ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、我が岩、わが救い、わがやぐら。わたしは決してゆるがされない。
何と確信にあふれた詩篇のことばを、そのまま自分の確信として告白できる幸い。
西部開拓時代、ミシシッピー川沿いを、旅人が向こう岸へ渡ろうとしました。氷を見るのが初めてで、さらに上流へ。勇を鼓舞し四つん這いになり、川の中ほどまできました。陽気な歌声と共に、カラカラカラと馬車が通過。旅人はすくっと立ち上がり、堂々とゆっくり川を越えて行きました。
試練や困難の川を、万人が越えなければならない、死の川の流れ、氷の上ではなく、イエス・キリストは十字架の上で死の力を味わい、3か目に復活することで、死の力を打ち砕き、天国へ行く道を備えました。
十字架と復活の救いを、アーメン信じますと受け入れ、イエス・キリストを心にお迎えすれば大丈夫です。試練や困難、病や貧困、そして死の川をも確信と平安豊かに越えて、永遠の天国まで、ゆるがされることなく行くことが出来ます。

ありがとうございます。今日もまた天国の一日でした。感謝してます。

愛に生きる

2017-08-16 18:49:34 | Weblog
マタイの福音書22:36-40 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

聖書の中心は愛です。愛とは神への愛が基本です。唯一の天地創造の唯一の神に対する全面的な愛です。心と思いと知力を尽くして愛することです。感情も思想も行動を支配する動機は愛です。

神の愛は豊かに注がれているので、人はだれでも神を愛することができる存在として、生かされているのです。この世に生を受けたのは神の愛を受けた証拠です。その具体的な愛を十字架に仰ぎます。神はそのひとり子イエス・キリストを世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御イエス・キリストを遣わされました。ここに愛があるのです。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

その事を聞いて、イエス・キリストの救いと神の愛をアーメンと信じ、種子島の海岸で洗礼を受け、11月24日で60になります。

その愛を受ける時、隣人を愛する人生がスタートしました。聖書の教えは、神を愛し、隣人を愛しなさい。その愛は、好きか嫌いかではなく、神への献身と、人への具体的な奉仕をともなう、全人格的な意志的な愛です。不可能ではなく、与えられた聖霊によって、神の愛が心に注がれているから、神の愛を受け取り、自分自身を愛するように、隣人を愛することができるのです。

ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝してます。

行いも伴う救い

2017-08-16 18:46:33 | Weblog
ヨハネの黙示録2:19 「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。
信じることは行いが正しくなることです。正しい行いで数われるのではなく、アーメンと言えば救われます。
16歳の時、種子島で聖書のメッセージを聞き、イエス・キリストの十字架の救いをアーメンと受け入れました。その日の午後、教会前の海岸で洗礼を受け、その日から今日も救われた平安と幸せに生き、11月24日で60年になります。
事実、信じる者は、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神様の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
なぜなら、信じる者は新しくされ、神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い行ができるように、キリスト・イエスにおいて造られたからです。アーメンと信じるだけで、その善い業を行って歩むのです。
愛は必ず行動します、信仰にも行いが伴います。奉仕することを喜び、働くこともはたを楽にすることを知っているので、ほかの人の幸せに仕えます。望みの忍耐で失望しないで楽しく生きることができます。
人は知らなくても、愛の神様が全部見てくださり、分かってくださいます。
しかも、クリスチャン生活が続き、天国へ召されるまで、その行いは継続し、豊かになっていきます。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝してます。

幸と平安

2017-08-16 05:42:48 | Weblog
15歳の時、イエス・キリストのことばを聞いた。種子島高校1年生だった。アメリカ人のアル・ハモンド宣教師が、放課後の教室で英会話クラスを開いており、誘われて出席した。
1枚のプリントに、 "Come to Me, all you who labor and are heavy laden, and I will give you rest.
"Take My yoke upon you and learn from Me, for I am gentle and lowly in heart, and you will find rest for your souls."For My yoke is easy and My burden is light."
と書いてあった。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
イエス・キリストの招きのことばです。
16歳の11月24日に、十字架と復活の福音を聞き、洗礼を受けてクリスチャンになり、今年で60年を迎えます。
その約束の言葉どおり、アーメンと信じるだけで救われ、休み=ほんとうの平安です。何事があろうと、起ころうと常に幸で平安です。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝してます。