枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

葉月、八せん終り

2018年09月28日 | Weblog

 人間の生死を、誰が決めるかは、本人の意志の疎通状態にある。然し、家族の拘る度合いで、後見人の立場で、大きく左右される。それを我儘と取るか、希望と察せれるかは、これまた介護職の個人でも異なる。災害時に、1対1での付き添いなど、以ての外である。介護現場を知らない者が決める。

 避難場所への移動も、暗闇の中を、然も冠水しているのを、安全なと言う所へ、一体どうやって行くのだろう?救命具の着用も、必然的な問題。国は、国民全員に配るべきだろう。血税を収めているのに、防衛費やアメリカの言い成りにするばかり。これのどこが安全・安心なのだ。原発再稼働中止。

 台風が、日本列島縦断とあるが、殊更に賑やかに言う前に、対策を取ってほしい。地球の表面を埋め立て、覆っているのだから、想定外の事が起きて当たり前。臭い物に蓋をすれば、その場凌ぎは出来るが、永久にはもたないもの。そういった事への関心に、もっと目覚めないと、災害は広がるのだ。

 前回の災害で、体調は崩さなかったが、周りの応対に疲れた。何でもかんでも受診でなく、応急手当でいい症状もある。つまりは日頃から、自己管理をしておくことで、慌て騒ぐことでもない。泥棒が入ってから縄を綯う、という悪循環だ。皆、自分だけは助かろうとするが、自然は容赦しないから。

 これからの建築は、災害時には球体になったり、舟になって浮かぶのがいい。命さえあれば、最初に戻れる。壊れてしまうだけの建物では、意味を成さない。地震や地滑りの振動を察知して、素早く形を変える。近未来の建築は、水に浮いたり、空中に浮かぶのもいいね。でも何よりも、自然を敬う心。

 枇杷葉の枝を伐っているところから、新芽が出て来た。今年は雨が多かったので、きらん草も繁殖している。神輿草が花をつけ咲いた。漢方の薬草は大切に栽培しているが、季節の移りで多々変わる。それが自然なことになるんだが、記録しておかないと忘れる。茗荷を食べ過ぎになったものか?違う。

 ネットの接続が、午後の7時を境に繋がらなくなる。この時間帯が一番多くなるようで、アクセスできない。尤も、従来のであるから、光に換えればいいのだろうが、半永久的な金額かは不明だ。個人のなので、四六時中の使用ではなし、何事もけじめが必要か。風はあるものの晴れており、秋晴れだ。

 たくさんの枇杷を、収穫して器に盛った。器は、枇杷葉の剪定を焼いて、土に混ぜて焼いた物。

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