枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

自然への畏怖

2018年09月07日 | Weblog

 人類は、余りにも傲慢・強欲を、科学と言う隠れ蓑でやり過ごし、地球があらゆる生命体の棲む惑星、と感謝の想いを忘れ去った。そのことへのしっぺ返しに、思えてならない。ここでも随分と書いて来たが、自然からの恩恵を忘れ、人間だけが生きるため、無謀なことを繰り返す。神の怒り。

 人間程、自分では何もできず、自らが産み出せる力もない。堪えず何等かの命に依って保たれており、科学・化学への依存で、生命を維持しているのだ。それらが果たして素晴らしいことのなのか?身体的機能には個人差もあるが、弛まぬ努力を怠らぬことも大切な事だ。学者も医者も神ならず。

 地上にある命を食べ尽くし、新しく合法的に創り出し、生産し、摂取可能にしているが、種の起源を真実理解はしていまい。況してや、自然を敬い感謝することもしないでおいて、何かがあれば、災害扱いをする。これは明らかに人災であろう。唯一、原発が稼働していなくて済んだ。不幸中の幸い。

 然しながら、青森県の八が瀬村に放置されている、プルトニュームは、何等報道されてもいない。日本海を隔てて、震度もあったのを懸念する。10数年前に訪れた千歳空港は、観るも無残な有り様。観光地と化しての無残さに涙する。豊かさと便利さと、自然を保つのは反比例。人が入れば荒れる。

 わたくしは予言者でもなく、新興宗教の類ではない。でも、自然からの声に心を委ねれば、自ずと解かる事柄が多い。ノアにだけ、神の声が聴こえたのも、行いが可能になったのも、無知故かもしれない。森羅万象の世界には、不可解な事柄が多く潜むのだ。仮の姿がイエスであり、信仰の対象かも。

 枇杷葉の下に佇んで、風を感じ、命への感謝を怠らずで居られる幸せを想う。余分なお金はないが、誰かが困っていると知れば、力の及ぼす限り尽くし、自然を敬っていればいいのです。暦を開き、そこに書かれてあることを深く学び、その恩恵に委ねることが大切。誰にも遠慮なく自分の途を辿る。

 今月は、秋の交通安全月間である。道端に、パトカーが停めてあり、速度計が見える。スピードを出していれば、気づかないこともあるので、心して運転しよう。警察は意外と卑怯な手を使う。これ等は、個人の通帳に振り込まれて、別途使用小遣い。捕まる者ほど、馬鹿をみるらしい。姑息だなぁ。

 我が家に来た時には、体長30cmにも満たなかった。キキの鉛筆入れ位だったので、至る場所でびびって。

 

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