狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

古本遊覧

2007-03-04 12:32:29 | 本・読書

ふるほん【古本】①古くなった書物。読み古した書物。⇔新本。②時代を経た書物。古書。―-や【古本屋】古本を売買する店。またその人。
こしょ【古書】①むかしの書物。古い文書。②古本。新本でない書籍。[―即売会]                           (広辞苑第5版)

知り合いの古書店が、表通りに向けて大きな「古本」という看板を出した頃の話である。

小生「〝古本〟と書くより、〝古書〟と出した方が格好良いのに…」

店主(店内の漫画本のコーナーを案内しながら)「taniさん。これ〝古書〟と言える?」店主の話では、売り上げの半分以上が、この漫画本のコーナーで占めているのだという。

店主「このコーナー馬鹿に出来ません。だから「古本」でいいんです。」店主は快活に笑った。
ここに積み重ねた、雑本、殆ど均一本(100円程度)を年度別に重ねてみた。ここで発行年度が最も古いのは、
校注平家物語 内海弘蔵(明治書院)定価金弐円弐拾銭と印刷してあるが「改正定価金弐円十銭と赤色のゴム印がその脇に押してある。学生さんらしい。学校名と名前が万年筆書きで記されているがインキ消しで消されている。松崎の認印が押してあって、かすかに専門学校の字が読み取れる。
次は「万葉集古義」第一巻  (全12巻)昭和20年12月5日初版発行目黒書店
昭和20年代の本は粗悪な紙である上、450ページもある厚い本がホッチキス止めの製本である。
奥付に著者名が記されていないがそれは序文から知ることが出来る。
この序文教育勅語のように濁音がなく記されている。

万葉集古義刻本序
万葉しふはわか国古書の一にしてこれをひもとけは当事の人情風儀をしりまた事物の呼称沿革等をもしるに足れり。しかれとも其詞つかひ文字の用ゐやうなと後世の人の弁へかたきこと甚多し。故に先達の学者これか注釈をつくりこれか論説をなして其書すてに数十部おのおのきはむる所ありて後進の益をなせり。近世土佐の学士鹿持雅澄万葉集古義を著はせり蒐輯ことにひろし其労おもふへし。この書注釈書中の上位におくへき書なり。わか明治聖上の為にこれを奏する人あり。上命してこれを土佐にめさしむ。しかるにこの書もと雅澄か生涯の力をつくし世を去るに至るまて校正してやますまた巻帙甚多きゆゑに正本に乏し。雅澄か門派高知県士族福岡孝廉か蔵本ひとり全本たるのみ。其他雅澄の嗣子飛鳥井雅慶の家に蔵する所といへともまほ完全ならす。これによりて福岡孝廉をして奉らしむるに至れり。孝廉ふかくこれをかしこみよろこひ雅慶其他の門人等とはかりて更に校正浄書してつきつきに宮内省に出せり。本編百巻は福岡孝廉か奉れる所付録廿余巻は飛島井雅慶の奉れる所なり。上すなはち宮内の官吏に勅してこれを刻本となさんとしたまふ。わか輩かねて文学懸りの命を奉するを以て其事にあつかれり。ことし明治12年の夏その第1巻刻なれりと告く。実に万葉集注釈書中において殊に光栄ある1本世に出現せりといふへし。心あらん人はみな天意のかたしけなきをおもひまた福岡飛鳥井の輩は師のため父の為かなしみよろこひこもこもなるおもひをなすなるへし。今其刻本となしたるはかの福岡以下門人数名か校正して進献する所の原本にしたかひて加除添削をなささるものなり。今かく其刻本となれることのよしを聊しるしおきてこれか序文となす。この序文をそふるも上命によれるなり。あなかしこや。
明治12年8月      元老院議官 福羽美静




         

驀地!“まっしぐら”と読むのだそうであります。

2007-02-15 11:39:27 | 本・読書


「天神さまお願い!」

本格的な受験シーズンを前に、「学問の神様」として知られる東京都文京区の湯島天神には、大勢の人たちが合格祈願に訪れている。境内に訪れている。境内に奉納された絵馬は約5万枚。受験生たちは志望校などを今に書き込むと、鈴なりとなった絵馬かけ所に次々と結び付けていた。

これは朝日新聞1月14日付1面の見出しと記事で、その光景を撮った大きなカラー刷り写真が貼り付けてあった。
勿論20日、21日の入試センター試験の直前である。写真でみると、重量感あるこの絵馬の目方は1枚500グラムは下るまい。したがって次のような計算式が成り立つ。
5万枚×500グラム=Xton

ところで、こうした受験生やご父母さんにために【絵本から専門書まで】塾講師が、
おすすめする書籍ご紹介のブログ本を読もう!VIVA読書!がある。

 そのページを紐解けば、天神さま顔負けする読書の神様であることに疑うべき余地もないが、時節柄、受験生への心得を微に入り細に亘りたり解説されている。
そのVIVA先生もまた、最後は天神様の念力におすがりして進学・学業成就に祈願をかけられておられた。

呼子と口笛

2007-02-09 21:52:08 | 本・読書

はてしなき議論の後
                   1911.6.15. TOKYO

われらの且つ読み、且つ議論を闘わすこと、
しかしてわれらの眼の輝けること、
五十年前の露西亜の青年に劣らず。
われらは何を為すべきかを議論す。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。

われらはわれらの求むるものの何なるかを知る、
また、民衆の求むるものの何なるかを知る、
しかして、我等の何を為すべきかを知る。
実に五十年前の露西亜の青年よりも多く知れり。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。

此処にあつまれるものは皆青年なり、
常に世に新しきものを作り出す青年なり。
われらは老人の早く死に、しかしてわれらの遂に勝つべきを知る。
見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しきを。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。

ああ蝋燭はすでに三度も取り代えられ、
飲料の茶碗には小さき羽虫の死骸浮び、
若き婦人の熱心に変りはなけれど、
その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。

        石川啄木詩集 斉藤三郎編 角川文庫より


寛仁親王殿下の歌会始の儀

2007-01-20 14:40:07 | 本・読書
 
寛仁親王の御著書「皇族のひとりごと」二見書房に「歌会始の儀」に触れた部分があった。「和歌」という表題である。その冒頭部分と中ほどのところを引用すると、
 

皇室というのは歴史的にいろいろな文化を大事に伝えてきたわけだが、そのなかでも現代でも色濃く継承しているもののなかの一つに和歌がある。
 およそ文化とか芸術がわからずに、というより人間にしか興味のない私でさえも、年に一度の陛下の催される歌会始の儀(毎年一月初旬)には成人した年から毎年出している。
 (略)
 私は出たり出なかったりなのだが、その理由は両陛下、皇太子両殿下のお歌は当然詠みあげるが、皇族は何人出てもその筆頭皇族の歌しか詠みあげてくれないので、自分のを詠んでもらいない歌会始めに出てもつまらんというわけで、私しか出られないという場合にしか出席しないことにしている。オフクロや他の伯母様方はできるだけ人前では詠んでほしくないとかおっしゃるが、こういう心理は私には皆目わからない。以下私の詠んだ歌を列記する。

とした上で昭和41年から昭和51年までのお題と和歌を列挙してある。その最初の一首のみ記せば、

昭和四十一年「声」

声あげて母校の勝利いのりつつ応援団の指揮とる我は

これは二十歳のときではあるが、高校時代教育大付属との運動部対抗の定期戦の応援団長をやったことをいっている!


さて今年は「月」、寛仁親王殿下どんな秀吟をお出しになったのか、興味を持って隅から隅まで探したが、載っていたのは、寛仁殿下の言われたとおり、天皇・皇后両陛下、皇太子・皇太子妃雅子さま、秋篠宮・秋篠宮妃紀子さま、常陸宮・常陸宮妃華子さま、三笠宮妃百合子さま、寛仁親王妃信子さま、高円宮妃久子さま、のお歌だけであった。

ある宴の献立

2007-01-13 21:03:14 | 本・読書

これは三島由紀夫「宴のあと」の一節である。
霞弦会という、それはむかしの同期の大使たちのいわばクラス会で、年に一度十一月七日が例会の日であるが、今までいい会場に恵まれてゐなかったので、ある大臣が見かねて口をきいたのだ。という設定である。

 まず第一章は「雪後庵」の説明から入る。

 
雪後庵は起伏の多い小石川界隈の高台にあって、幸ひに戦災を免かれた。三千坪に及ぶ名高い小堀遠州流の名園と共に、京都のとある名刹から移された中雀門も、奈良の古い寺をそのまま移した玄関や客殿も、あとに建てられた大広間も、何一つ損なはれてゐなかった。
 戦後の財産税さわぎの只中に、雪後庵は元の持主の実業家の茶人の手から、美しい元気な女主人の手に渡って、たちまち名高い料理屋になった。
 

 その日の雪後庵の献立は次のようであった。

 汁  松露、胡麻豆腐、白味噌
 作  烏賊細作り、防風、橙酢、
 鉢  あま赤貝、青唐、橙酢、出汁
 八寸 鶫附焼、伊勢海老、貝柱、千枚漬。甘草芽
 煮  相鴨、筍、葛餡かけ
 鉢肴 鰉二尾、甘鯛塩焼、橙酢
 椀  ぜんまい、栗餅、梅干

かづは藤鼠の江戸小紋の着物に、古代紫地に菊花菱の一本独鈷の帯締め、錆朱の帯留に大粒の黒真珠をつけた。かういう着物の選び方は、豊かな体を引きしめて、すっきりと見せるのに役立った。

ボクがなぜこんなところを興味深く引用したかというと、古い(97年)町の広報紙の「町長コラム」に皇太子殿下ご夫妻との昼食会に臨んだ時の献立が記されていたのを見つけたので、何となくその両者を比べてみたかったからである。

 しかしボクは、昨日物置内の片付けに丸一日を費やしてしまった。東京に住む倅を動員して、欅や銀杏の落葉で、すっかり詰まってしまった物置の雨樋や、排水溝のゴミを取り浚らわせた。
 物置内には、運送屋をやっていた時の、工具や機材が散乱したままになっている。あまりはりこみ過ぎて夜は草臥れて酒を煽って寝てしまった。
 今朝、起きてすぐブログ更新作業に入ったところであるが、 皇太子殿下ご夫妻と共にした御献立表を、謹記し終わったところで、家内が朝食の準備完了のお迎い。

 拙宅の朝食は概ね次ぎのようなものであった。

 汁…蜆汁。赤味噌仕立て、妻・ねぎ
 煮物…切干大根人参さつま揚げ和え(昨夜の残り物)
 椀…自家製沢庵漬けもの、焼き海苔
 雑…サラダ(これも残り物であろう)・鰹塩辛
 飯…電気炊飯
 揚…農協緑茶
味噌汁はお代わりを頂戴した。(14日追記) 




求めよさらば与ヘられん

2006-12-27 10:16:47 | 本・読書

9われ汝らに告ぐ、求めよ、さらば与へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。10すべて許むる者は得、尋ぬる者は見出し、門を叩くものは開かれるなり。11汝らのうち父たる者、たれか其の子、魚を求めんに、魚の代わりに蛇を與へ、12卵を求めんに蠍を与へんや。13さらば汝ら悪しき者ながら、善き賜物をその子らに与ふるを知る。まして天の父は許むる者に精霊を賜はざらんや』(舊新約聖書、日本聖書協会1982)

9そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。10だれでも、求める者は受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる。11あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を與える父親がいるだろうか。12また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。13このように、あなたがたは悪いものでありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っている。まして天の父は求める者に精霊を与えてくださる。」 
(新共同訳聖書旧約聖書続編付き)日本聖書協会:全国学校図書館協議会選定・日本図書館協会選定)1987年共同訳聖書実行委員会

9それゆえにわたしはあなたがたに言います。求めつづけなさい。そうすれば与えられます。探しつづけなさい。そうすれば見えだせます。たたきつづけなさい。そうすれば開かれます。10だれでも求めているものは受け、探している者は見いだし、まただれでもたたいているものには開かれるのです。11実際、あなた方のうちどの父親が、自分の子が魚を求める場合に、魚のかわりに蛇を渡すようなことをするでしょうか。12あるいはまた、卵を求める場合に、さそりを渡したりするでしょうか。13それで、あなた方が邪悪なものでありながら、自分の子供に良い贈り物を与えることを知っているのであれば、まして天の父は、ご自分に求めている者に精霊を与えてくださるのです」。(聖書新世界訳ヘブライ語、アラム語、及びギリシャ語の本文と照合しつつ、英文新世界訳聖書(1984年改訂版)からなされた翻訳―1985年日本語版-

清流に臨みて詩を賦す

2006-12-20 16:23:21 | 本・読書
聊か旧聞に属することで恐縮だが、秋篠宮紀子妃殿下(紀子さまといった方が一般的みたいなのだけれど…)が、親王様をご出産なされたとき、マスコミの扱いは異常なものであった。新聞の号外は勿論だが、東証株式市場への影響まで取り沙汰されたようだった気がする。

ところでそのとき、紀子さまのご両親である川嶋辰彦学習院大教授夫妻の感想は、「『清流に臨みて詩を賦す』心に重なる感懐を覚えます。お健やかな御成長を謹んでお祈り申し上げます。」と仰っしゃられとの記事が新聞にあった。

それは如何なる心境なのか、一応ネットで「陶淵明」を検索してみた。
登東皋以舒嘯 臨清流而賦詩
聊乘化以歸盡 樂夫天命復奚疑
之は「歸去來兮辭」という長い詩文の終の方にある詩文で、小生が解読するには(解読には一生かかってしまうであろう)凡そ難解、解読不可能なものであった。

ところが、偶然である。
その出典「陶淵明全集(下)」が小生の手元の書棚にあったのである。
意識して頂いたのではないが、今年の文化祭の折、町の 図書館の「整理ポスト」として一般町民に無料払い下げをした本の中から、僕が行列の中に入って頂いてきた、
「ワイド版岩波文庫・陶淵明全集(下)松枝茂夫・和田武司訳注」なのである。

岩波文庫は、最近大きな活字版の文庫に移りつつあるが、それでもわれわれ高齢者の読めるような活字ではない。その点ワイド版は、体裁といい、活字ポイントといい、文句の言いようもない良書である。

この「ワイド版陶淵明全集(下)によって、妃殿下のご両親である、川嶋辰彦学習院大教授夫妻の感想を解読できたのであった。

次が、その訓読みと、平易な現代語訳である。

已矣乎 寓形宇内復幾時
曷不委心任去留 胡爲遑遑欲何之
富貴非吾願 帝郷不可期
懷良辰以孤往 或植杖而耘
登東皋以舒嘯 臨清流而賦詩
聊乘化以歸盡 樂夫天命復奚疑

已矣乎(やんぬるかな)、
形を宇内に寓する 復た幾時ぞ。
曷ぞ心に委ねて去留を任せざる、
胡爲(なんすれ)ぞ遑遑として何くに之かんと欲する。
富貴は吾が願いに非ず、
帝卿は期す可からず。
良辰を懷うて以て孤り往き、
或は杖を植(た)てて耘耔(うんし)す。
東皋に登りて以て舒(おもむろ)に嘯き、
清流に臨みて詩を賦す。
聊か化に乘じて以て盡くるに歸し、
夫(か)の天命を樂しみて復た奚(なに)をか疑わん。

ああ、いかんともしがたい。
肉体がこの世にあるのは、あとくばくもないというのに、
なぜ自らの願うところに従い、自分の出処進退をそれにあわせないのか。
一体この私は、何処へ行こうとして、かくもあわただしくしているのであろう。
富や地位は私の願いではない。復、神仙の世界などというのもあてにならない。
晴れた日が来れば、ひとりで歩き回り、
杖を傍らに突き立てて農作業の真似ごとをする。
また、東の丘に登ってのんびりと口笛を吹き、
清流を前にして詩をつくる。
自然の変化にわが身をあわせ、生命の終わるのを待ちうける。
天命を素直に受け入れて楽しむ境地に入れば、
もはや何の迷いもなくなってしまうのだ。

〈寓形宇内〉身を天地の間に寄せること。
〈心〉心願。ほんとうにしたいこと。
〈去流〉進退、行動。
〈遑遑〉あわただしいさま。
〈帝郷〉神仙のすみか
〈耘耔〉耘は除草すること。耔は土をかけること。
〈乗化〉生命が変化するのに従うこと。
〈帰尽〉死をさす。


ある会誌から

2006-12-17 21:23:23 | 本・読書
 この文章は、私の県内、S市の「文化団体協議会」発行の「会誌」から引用したものである。

この会誌は十数年前、同市でキリスト友会系列の幼稚園の園長である、F氏(当時90歳)から頂いたものである。

  『Fの分校時代    O・A』
…(略)私が入学したのが昭和6年(1931年、満洲事変が始った年)、H・S・HとO・H(集落の名称)の一部の4年生までがここに学んだ。
校庭は四方が桧葉の生垣に囲まれ、東と北に通用門があった。庭の南には大きなけやきの木、東南にひいらぎと淡紅色の花をつけた百日紅、西と北には桜の木、角の方に小さな砂場があり、低鉄棒もあった。

校舎は木造で古びた平屋瓦葺き、東が低学年(1・2年)、西が中学年(3・4年)、一番西側に下屋が造られてあって、職員室と小使室が並んでいた。その仕切りは障子だったと思う。昇降口と便所は東教室北廊下のその北にあった。

小使室の近くには大きな「さと」の木が生えていて、地面におちた黒茶色の〝さとの実〟を競争で拾っては、よく食べた。又、分校は井戸水が悪いので、その水を大こな瓶に溜め、そこから垂れる越し水を飲んだ。竹筒の先きにぶらさがった赤茶けた〝越し水〟が目に浮ぶ。
 担任は一年が小太りで詰襟のI先生、二年がちょこ髭のK先生、三・四年が若いO先生だった。
 各学年共20名弱で、三つ年上の兄は男が僅か2人だったと聞いている。複式なので、在校中に一年上下の学年とは二度同じ教室で過ごすことになる。

 授業の合図はおじさんが鐘を鳴らした。
(中略)
 天気が変わって途中で雨になると、母ちゃん方が交代で近所の子供の分まで、傘を束ねて持ってきてくれる。昔は本当に人情がこまやかだったと思う。
 今の子供たちに60年前(2006年からでは、約75年前)のこんな話を聞かせても分ってくれないであろう。

 当時は黒表紙の国定教科書で、修身、国語、(読方・綴方・書方)、算術、図画、唱歌、体操、手工を習った。学校手牒(通知表)には「操行」という欄もあった。この手牒を開くと「教育に関する勅語」「戊申詔書」「国民精神作興に関する詔書」が載せられているが、昭和の教育理念はこの三大詔書によって、強く規制されたことであろう。
(中略)
 さて、当時の勉強の事は殆んど忘れたが、私たちの学んだ「ハナハト読本」は、間もなく色刷りの「サクラ読本」に改編された。あの頃は。「今日」は「ケフ」「蝶々」は「テフテフ」と書いた。

木内小平、広瀬中佐、乃木大将、日本海海戦、肉弾三勇士等の軍国美談も記憶に残っているが、国家主義、軍国主義が学校教育の中で強調されたことであろう。
「庭に咲いた垣根の小菊、一つ取りたい黄色い花を、兵隊遊びの勲章に」この文は私の心に深く刻み込まれ、今でも覚えている。
(中略)
 小遣いは1銭(1円の百ぶんの一)、これがなかなか貰えない。貰ったものなら小躍りして駄菓子屋に駆け込む。
 時には太鼓を叩いて飴屋のおばさんが来た。紙芝居のおじさんも来た。1本1銭の飴を買うと。「黄金バット」の紙芝居が見られる。銭がない時は、遠くでそっと眺めていた。
少年倶楽部に「のらくろ」「冒険ダン吉」が、当時の少年達の人気尾を集め、熱狂させたことも忘れ羅れなイ。
 今考えると、あの頃の子供達には、すばらしい子供の文化があった。(略)



補足尋常小学算術書

2006-12-16 17:57:15 | 本・読書
尋常小学算術書を、藤富康子「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」から、引用したのだけれど、「中抜きの引用」なってしまった。もう少しその前に戻って引用しないと、ちょっと意味が通じないと思うので書き足してみたい。

>賛否両論に渦巻く世評を満身に浴びながらも、昭和8年4月入学する児童からこの新しい国語読本は使用され、その冒頭文より「サクラ読本」と通称されて、一人歩きを始めた。世間の評判につられてか、小学生に関係のない家庭までも巻一を買い求めて話題とするほどの人気であった。(略)

昭和7年には「尋常小学図画」と「新訂尋常小学唱歌」の教科書が刊行され、8年にサクラ読本の「小学国語読本」と「小学書方手本」、9年には青表紙に美しく装われた「尋常小学修身書」が新しく刊行された。そして昭和10年には―。

新教育思想を背景にしながらまだまだ平和なそのころ、もう一つの熱気が図書局に渦巻いていた。『尋常小学算術書』の改訂をめざす塩野直道図書監修官を中心とした若い鋭意の面々である。サクラ読本の好評は、スタッフの意気に拍車をかけ、昭和10年の発行を控えて原案の起草に検討に、たゆみない努力が続けられていた。

かつて、日本の数学教育は、関孝和(1640~1708)を頂点としていた。直感的・術的な和算の伝統に、幕末の欧米文物の流入による客観的・学的な洋算の必要性が加わり、明治5年の学制発布を機に、「和算廃止、洋算専用」が唱えられ、ソロバンでの計算を廃して筆算の普及が努められていた。しかし、筆算を要求されても、それを教える側の教員にまだ洋算を知らない者が多く、次第に珠算を教えることも認められるようになり、さらには暗算を奨励して、明治10年代には筆算・珠算・暗算の教科書が出版されていた。30年代に入ると近代国家として教育体制を整える必要から、33年に「小学校令」が制定され、その算術科の教則も定められた。

算術ハ日常ノ計算ニ習熟セシメ、生活上必須ナル知識ヲ与ヘ、兼テ思考ヲ精確ナラシムヲ以ッテ要旨トス
これは以後40数年に及ぶ指導精神となったのである。

尋常小学算術書

2006-12-15 21:15:32 | 本・読書
『サイタ サイタ サクラ ガ サイタ』教科書のことをボクがブログに書いたら 〝 読書の神様〟と小生が尊敬してやまないVIVA先生から、
「そうですか (VIVA) 先輩。サイタ サイタ サクラ ガ サイタ うろ覚えですが、どこかで聞いたような。ありがとうございます。読んでみます。」というコメントを頂いた。

ボクは、「その編者は、文部省図書監修官井上赳とされているようですが、そのころの事情を書いた本に『サイタ サイタ サクラ ガ サイタ』藤富康子 朝文社1990年 があります。」
とご返事を書いて差し上げた。
この本(藤岡康子著)には、国語読本ばかりでなく、何かもう一つ気になる当時の「算術書」について、簡単ながら言及があったので、VIVAさんが、綿密に検証される前に、その抜粋を引用してみたい。
 
>運動会の玉入れ競争の絵に始って全巻文字なし。絵本のようにたのしくきれいな『尋常小学算術』第一学年児童用上は、昭和9年(1934年)12月発行され、翌10年4月、新入学の1年生より使用された。
 若葉のような緑色の表紙に、オレンジ色の例の「かざぐるま」に見える三角形の図形がくっきり描かれて、これまでの黒表紙の算術書とはまるっきり違った明るい印象の教科書で、「算術の絵本」といった感じのする一冊。他の絵本に比べて値段も安いところから、学齢前の幼児を持つ母親たちが競ってこの本を買い求めてわが子に与えるなど、一般の人たちにもたいへんな反響をよんで、人気の教科書であった。定価は九銭。
 黒表紙では一・二年生用の算術書はなかったので、上級の児童たちの羨望はいうまでもない。
しかし、サクラ読本もそうであったように、世間は喝采ばかりは贈らぬもので、まず実際の場で扱う教師たちから声が挙がった。

―燐寸ノサキノ薬品ノアル部分ハ、コレヲトッテ挿シ絵ニ入レヨ。
―ツツジノ花ニ「モンシロ蝶」ハ、フサワシクナイ。「アケハ蝶」ニセヨ。
―上巻ハ、アマリニ同ジヨウナコトヲクリカエスコトニナッテ、カエッテ興味ヲソグ。児童ハ、マタ遊戯カ?ソンナコトヲセンデモ2+3=5トヤッテモライタイ、トイウヨウナ感ジヲモツ。
―時計ハ、ドノ程度ノ要求カ知ラヌガ、田舎ノ子ドモニ少シ無理ナヨウダ。ナニブン田舎デハ時計ナド家庭ニハナクテ、鶏ノ鳴クコト、太陽ニヨル影ナドノコトカラ時刻ヲ知ルカラ、1年生デハ一般ニ無理デアル。
―アノ教科書ヲ複式教授ニ用イヨウトスレバ、ドウスレバヨイカ、カコトニ困ル。日本ノ現状デハ複式教授ヲオコナッテイル所ソウトウ多イノデアルカラ、コノ点ニツイテモ考慮シテ欲シイ。
―コレカラ二年用上巻ナドヲ出版サレルニハ、モット早クシテモライタイ。デナイトジュウブンナ準備ヲスル暇モナクテ新学期ヲ迎エネバナラナイ。

玄侑宗久について

2006-11-30 15:58:18 | 本・読書
同町内に住み、 俳句仲間、町文芸誌編集長 A兄とは、中学同級、毎週土曜日のZ寺「朝行(朝参り会)」も一緒、文芸趣味も(A兄の方が遥かに上だが)類似している。
不動堂と本堂での読経のあと、客殿の小部屋で朝茶を頂きながら小時間雑談となる。
ボクとA兄以外は、誰も文芸には関心がない。だから二人だけで文学の話は殆んどしないのだが、先週の朝、偶然玄侑宗久が話題になった。
小生「最近の芥川賞作家の名前知っている?」
A兄「蛇にピアス」「蹴りたい背中」は買ったけど、「蹴りたい背中」は初めの方ちょこっと読んだだけで、開いていない。作家名も思い出せない」
小生「平野啓一郎の「日蝕」は?」京大生、しかも最年少受賞作家ともてはやされたので、ボクも彼も、
「一月物語」まで買い込んだのである。しかしボクは、彼の居間の書架にきちんと斯の2冊が揃えて並んでいるのを何回も見ているが、ボクの方は、何処かへ仕舞えこんでしまって、容易には見つからないような有様である。

小生「「蛇にピアス」も「蹴りたい背中」も何万部も売れたみたいだけど、今本屋にも見かけないね」
A兄「あれからだって、芥川賞は毎年前期、後期で発表なのだから、うんとある筈だが、すぐ消えてしまう。ただ、今活躍しているのは、エーと、慶大卒、坊さんで…、ちょっと名前が出てこないけど、あれは読める。あれだけだな」
小生「玄侑宗久だろ」
A兄「んだ、んだ。 売れっ子みたいだ」

 玄侑宗久のエッセーはボクも、文学には無関心である筈の妻も愛読者の一人である。
実はボクのブログを、『192◎年生まれの“若輩”とおっしゃる、敬愛する先輩 tani さんの怒ブログです。』とマークまでなされて下さる、V先生ブログ『本を読もう!!VIVA読書!」に『「禅的生活」玄侑宗久』が詳しく解説されている。
その文末を引用させていただく。

>手始めに、最初の章で、無意識に出てくる “あくび” だって意識的にできますと、以下のようなテクニックが紹介されています。 
まず直前に軽く一息吐いてから、口を開き、意識をのどの奥、というより両耳を結んだ中心点あたりに置く。
それだけでしばらくすると後頭部が締まりだし、口が更に開いて見事なあくびが出る。 
意識の置きどころさえ間違わなければ、必ず出るはずで、何度やっても出る。
私もやってみました。最初はできませんでしたが、何度も、“こんな感じかな?おっ、出そう、いや違う” なんて感じで、しばらく練習すると、確かにあくびが出るんです。興味があれば、お試し下さい。

ただし、こうした簡単な健康法の紹介ではなく、思想的、宗教的な話ですから、読み応えのある一冊です。 ここで言いたいことは、あくびの仕方にとどまらず、眠たいと思う『心』も、眠ろうとする『体』も実は、意識的にけっこう誘導できるということです。
“無可無不可” “一切唯心造” “六不収” “廊然無聖” “応無所住而生其心” “柳緑花紅真面目” “一物不将来” “日日是好日” “随所作主立処皆真” “平常心是道” “知足” “安心立命” “不風流処也風流”
こういった概念の説明ですから、筆者の、”一人でも多くの人に楽で元気になってほしい”という願いで書かれた一冊ですが、気楽に読めるわけではありません。健康法というより、思想に興味のある方にお薦めです。>

添付カットは朝日新聞PR誌「暮らしの風」に連載された〝ベラボーな生活 玄侑宗久〟最終回分です。単行本にもなっています。




三島由紀夫全集について

2006-11-12 21:16:29 | 本・読書
読書の神様V先生から「三島由紀夫全集」に拘わるコメントを頂いた。

『>保証人まで付けて、全集を揃えたいとお思いになったんですね。三島由紀夫はそんなに、魅力的であったということでしょうね。

そういえば、以前に反戦女流作家の全集も開かないままお持ちになっているとかかれていませんでしたか。

三島の作品で先輩が一番気に入っている作品はどれでしょうか。もしよろしければ、いくつか教えて下さるとありがたいです。』
進学塾講師、読書の神様(これは決して巫山戯て言ったのではない)から、このような「コメント」を賜った。

この反戦女流作家とは説明するまでもなく「宮本百合子全集:24巻・補巻1.2新日本出版社刊1980年初版」である。

三島由紀夫全集は今も「決定版 三島由紀夫全集(全42巻/補巻1、別巻1)」
が新潮社からでているが、それとはおのずから
書種がことなる。限定1000部というところにボクは注目した。

ボクは、仲間と年1回発行の文芸誌に同人格で(同人という規定はなく、文学同好者の集まり)毎号欠かさず投稿してきた。
 投稿者は約20人、B5版で2段組10P活字80ページ前後の字ばかりの雑誌(写真が2~3枚いることも有るが、カットなどは一切ない。11号まで続いていている)である。
 その中には、中央雑誌に発表しても、恥ずかしくない様な作品が数編あると確信できる。(会員には、何冊もの著書のある常連の方が、3名もおられるが、歌集、句集、自分史出版を含めると、更にその数は増える。)

 平成14年(第7号)に「旅」という特集号があった。
「私はまだ飛行機に乗ったことがない…」から書き始る『本の旅人』という主題で、わが家の書棚にある本から、その一冊々々の購入時も思い出話や、それに纏わる出来事などを記した。
 その中で妻に隠れて買った本として、
「三島由紀夫全集全35巻/補巻1 新潮社版限定1千部」についてこう書いた。

 『この全集は限定本だけあって、今まで手にしたことのない豪華本である。無論町の図書館の蔵書にはない。
 最近これを古本屋の店頭で何回か見かけた事がある。限定1000部は、当てにならないとは思いたくないが…。』ナンバリングは打ってなかった…。

 1975年1月第1巻が配本されている。購う気になったのは、以前読んだことのある三島の作品の中で、特に『宴のあと』(昭和35年11月10日発行 新潮社」に共鳴したからであった。

 しかしこの全集は何分にも高価であった。途中キャンセルされると困ったからであろう。〝保証人が要る〟といわれたときはオレも随分見下げられたと思った。店主は中学同期生だったのである。誰が保証人になってもらったかは思い出せない。
勿論迷惑はかけなかった。

 参考まで奥付裏面を記す。
 本文印刷 株式会社精興社
 口絵印刷 松本精喜印刷株式会社
 付録印刷 株式会社精興社
 製本   大口製本印刷株式会社
 製函   株式会社田中製函所
 本文用紙 特漉スーパー上質紙・三菱製紙株式会社
 表紙皮革 籾井皮革株式会社
 表紙金版 綱井金属彫刻所
 見返用紙 フランス製・マーブル紙
 扉用紙  鳥の子ロール掛け・株式会社山田商会
 薄紙   中ライス・三島製紙株式会社
 函用紙  ドイツ製・レンケルレイド
なほ、
 監修  石川 淳
     川端康成
     中村光夫
     武田泰淳
 編纂  佐伯彰一
     Donald Keen
     村松 剛
     田中美代子
     である(14日追記)


憂国忌

2006-11-10 08:51:22 | 本・読書
間もなく、「憂国忌」が来る。
11月25日は憂国忌、1970年、作家三島由紀夫と楯の会メンバーが東京市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部で篭城、自決した日。毎年この日は「憂国忌」という追悼会が開かれているそうだ。
「憂国忌」は俳句の季題としては、小生の使用している「合本俳句歳時記(昭和62年版)」にはまだ載っていない。多分今の「歳時記」にはのっていると思う。

数日前から、部屋の整理をし始めた。
ボクは「三島由紀夫全集 新潮社版 全35巻/補巻1」(限定1千部:昭和51年初版)を持っている。(これを予約する時、T市のS書店では、店主がボクの中学同級にもかかわらず、保証人を付けさせられた。
(S君!このブログを見たら何とか言え!)
本箱に入っているとはいえ、埃だらけである。

辞世の歌を確めた。

34巻(532頁)にようやく見つけた。

   辞世  二首
益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へて今日の初霜

散るをいふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と咲く小夜嵐

書籍紹介「農協に明日はあるのか」

2006-10-29 21:36:22 | 本・読書
畏友T・M氏より
「農協に明日はあるかJapan Agricultural Cooperatives」日本経済評論社(2006.10.25第1刷刊)を恵贈された。

 『生きるために必要な「食」と「環境」をになう農協。
地域社会から頼りにされ、無くてはならない農業・農協をめざして、現役理事が様々な問題提起と解決方法を模索する。』
これは、著書の帯に記された文である。

さらに次のような挨拶文が添付されてあった。

『…(略)
 私にとって書くことは生理現象であり、同時に自分の座標軸をはっきりさせることだと考え続けてきました。書くことは止して農協の仕事に専念したら、他人の文章の引用が多過ぎる、自分の意見はないのか、お前は自分の農協で何をやっているんだ、などなど言われ続けてきました。それらの、苦言、批評は今はただちに甘受する、というしかありません。
『農協に明日はあるのか』は最近書いたものの中から、農協の現状、行方について整理たものです。農協論にはなっていませんが、内外的批判を試みたつもりです。
前著『よみがえれ農協』の続編でもあります。日本経済評論社からは三冊目の本になります。(略)
ご意見、ご批判をお寄せくださればありがたく存じます。
                       著者

「農協に明日はあるのか」    日本経済評論社 定価(本体1900円+税)

審査風景

2006-10-26 19:32:30 | 本・読書


審査は、厳正公正忠實に行われた。勿論今日は、部門審査であり、一応今日の審査結果は判ったのだが、これからそれを参考にし、「教育委員会」と称する学識経験を積む、おいら方が最終的判断をすることになる。

僕は今日の段階で、「ボツ」となってしまったが、ブロ友noaさんの要望もあるので書き記す。
本文に忠實ではあるが読点と、易しいと思われるかな書きは漢字に改めた。何箇所でもない。
作者は小4年生。最終決定になるまで、名では名前を伏せてある。勿論僕も知らない。

イシガメの里を読んで
      406(作品番号)
この本は「イシガメ」の生態について、一人の男が一年間にわたり、自然と一体になって貴重な写真を撮り続けた話です。

イシガメは、その名前の通り陸の上での生活が多く、だいたいペットとして家庭で飼われている亀(カメ)とはちょっと違うようです。水中にいる時の行動は、他の亀(カメ)と変わらないのですが、陸上での生活に関しては、まだまだ一般の人達には知られていません。特にイシガメの産卵については、時期や場所、行動のパターンなどは、謎(なぞ)が多いようです。
イシガメは、人間の世界で言う「日光浴」をとても好んでするようです。僕も日光浴は好きですが、あまりやりすぎると皮膚癌(ガン)になってしまったりするので、「イシガメは大丈夫なのかな。」とも思いました。

 十月のある晴れた日に、男性が歩きなれた道で、道端に視線を移すと、このあたりではとても多い、からすへび(烏蛇)が何かを口から飲み込んでいました。よく見ると、イシガメの子供を丸飲み(のみ)しているところでした。男性はとっさに「子亀(ガメ)を助けてあげたい。」と思いましたが、蛇(ヘビ)だって食べなければ生きていけないので、「人間が手を出してはいけないことなんだ。」とも思いました。

 ぼくも前にお父さんから聞いた事があります。「生き物の世界では、弱肉強食が自然なんだよ」と。弱い者は強い者の為に滅(ほろ)ぼされる事らしいです。でもぼくだったら、「助けてあげるかもしれないな。」とも思いました。

 自然の中の生き物も必死で生きていることを改めて知り、ぼく達がペットとして飼っているのは、生き物の本当の姿ではないんだと感じました。ぼくの家にもポメタニアン犬のラリーがいますが、
「犬の世界は大丈夫かな」とすこし複雑な気持になりました。

 最も撮影が難しいと言われるイシガメの産卵の季節がきました。イシガメは水辺(水べ)から数百メートルも離れた陸上で卵を産みます。足で土を掘り起こし、卵を産み、その上に又土を器用に乗せるらしいです。本を見るとウミガメの産卵シーンを思い出しますが、イシガメの場合は、人や敵の気配を感じると産卵をしないそうです。でも男性は見事に写真を撮ることに成功しました。長い間、男性がイシガメのおつき合いをしてきたから、この人は
「信頼(信らい)出来る人間なのかな。」と思ったのかもしれないのです。とてもすてきな事だと思いました。

 男性が長い時間を使ったからこそ、イシガメと仲良くなり、お互いに分かり合えた気がして心が温かくなりました。
 ぼくはこの「イシガメの里」を読んで、全ての生き物が自然の中で、当たり前のようにせいいっぱい生きていることを学び、命の大切さを改めて教えてくれたような気がして、とてもうれしく思い、ぼくもイシガメに会いたくなりました。

小生の読後感

〇難しい漢字を使いこなし、内容も立派です。
☆☆☆☆←昔の岩波文庫の☆を真似た。 (tani)