まぬ家ごめ助

姓はまぬけ、名はごめすけ、合わせて、「まぬ家ごめ助」と申します。どうぞお見知りおきを。

あゝ青春

2017-01-29 12:36:02 | 日記
思えば、約2年前は、貧乏のどん底にありました。無職でしたし、現金は全て散財していましたので、唯一の資産である株を売って、どうにか生計を維持していました。そんなわけで、節約に励まなくては、と、誓っていたはず、だったのに・・・。

昨日は早番で、出勤早々、先ずはコーヒーを自動販売機で買いました。120円。入浴介助の前に、水分補給をしておかないとくたばる、と、そう思いましたので、スポーツ飲料を買いました。140円。お昼休みに、再度コーヒーを買いました。110円。仕事を終えてから、さらに、エナジー系の炭酸飲料を買いました。100円。む~!

思えば、約4年前は、寂しさはありましたけれども、とにかく相棒が欲しかったし、しっかり前を見据えていたように思います。お酒や煙草への依存も、今ほどではありませんでした。そうして、お見合いに励んで、心が折れちゃったんだよなぁ・・・。

30歳代の女性に言いたいことなのですが、男という生き物は、確かにペット以下の存在ではありますけれども、だからと言って、(例えばペットやアイドルや趣味に)逃避するのはおやめなさい。さらに学びなさい。傷つきなさい。

説得力、まるで、なし。
コメント

「除夜」

2017-01-29 12:07:54 | 日記
「除夜」は、大晦日に、(松井山)専福寺が、除夜の鐘をつきに来る参拝客に対して振る舞う、オリジナル銘柄のお酒です。酒造元は高橋庄作酒造店ですので、つまりこのお酒(の中身)こそが、「(本醸造)会津娘」、ということになるのではないでしょうか。「会津娘」にはいくつかのバリエーションがあり、純米酒も呑んだことがありますが、私の好みは本醸造の方にあります。高橋庄作酒造店には、「無為信」というブランドもあるのですが、親鸞のお弟子さんである、無為信こそが、専福寺の開祖なのだ、と、「除夜」のラベルには記されています。

「会津娘」は、会津でもなかなか手に入りません。あまり流通していません。人気だからなのか、製造数が少ない(限度がある)からなのか、どうしてなのでしょう、わかりません。けれども、先ずは、一ノ堰の蔵元に行けばよろしい。燕の巣と共存している、あの蔵を、是非、訪問して頂きたいです。それが無理であれば、「會津酒楽館(渡辺宗太商店)」に行けば必ず手に入ります。

写真のわんこは、誰がどう見たってゴールデン・レトリバーですが、ちいこは、イングリッシュ・セターと和種系(柴犬?)のあいのこでした。いわゆる出来ちゃった婚という奴でして、どうやら望まれて生を受けたわけではなく、だからこそ突然我が家に来てくれた、という、そんな経緯だったように記憶しています。ともあれ、雑種には雑種特有の愛らしさや魅力がありますし、とにもかくにも、オリジナルな犬でした。最高にキュートな犬でした。かよたん星人はよく「どうしてあんなに可愛かったんだろう」と言います。全くその通りの犬でした。

「会津娘」は、進呈するお酒ではありません。薄給の一般庶民が、自らが好んで呑む、そんな美味しいお酒だと思います。「除夜」とは矛盾しているようで、矛盾していません。というのは、「除夜」は振る舞い酒なのですから。つまり、無料のお酒なのです。そんなわけで私は、去年の大晦日もまた、専福寺に行くようにと、ケーコにお願いをしておきました。彼女は4人で参拝に行って、しっかりとゲットしてきてくれました。写真には3本しか写っていませんが、1本は彼女が呑んでみたからなのです。そうして、「おいしかったよ」と、申しておりました。無為信は、親鸞の稲田時代のお弟子さんのようです。なんというか、いろんな縁を感じます。
コメント

あぁ、ちぃ、ちぃ、ちぃ!

2017-01-27 22:43:51 | 日記
酔っていました。

毎度のことではありますが、今宵も酔っていました。そいでもって、よせばいいのに、自転車を飛ばして、武蔵藤沢へ。途中、どうにも凸凹な道を走ったりなんかしながら。目的は、先日壊してしまった職場のプラスチック容器を百均で買うことと、石鹸シャンプーをコープで買うこと。入曽はお茶の香りがしますが、武蔵藤沢はカレーの香りがします。あぁ、いいなぁ。和むなぁ。

レジ待ちしていて、気付きました。あぁ、お財布がないや。サザエさんだなぁ。愉快だなぁ。お月さまも笑ってるなぁ。

仕方がありませんので、家に戻って、今度は入曽に向かいました。(入曽の)百均は既に閉店していました。19時までの営業だったのです。あぁ。そいでもって、近所のスーパーに寄った時に、ちいこ(もどき)に会ったのです。862円でした。私にはどうにもペンギンさんのイメージが付きまとうような気もしますが、あの世で再会したいのは、ちいこ、君だけだよ。
コメント

衝撃からエクスタシーへ

2017-01-25 00:17:05 | 日記
この頃の興味は、主に、グレン・グールドにあります。というか、「この世界の片隅に」の衝撃と、並行してはいますけれども。

さてさて、グールドとの出会いを、完全に忘れていたのです。対して、例えば、ロッド(中学生の時)や、ストーンズ(高校生の時)との出会いは、はっきりと覚えていますけれども。

ブログを続けていることの便利さは、まぁ、こんな所で発揮されるわけですな。つまり、遡ってみたところ、なんとまぁ、それは、2010年9月25日のことでした。なんとまぁ、というのはつまり、それなりに時間が経過しているのだなぁ、という想いと、さらに、6年以上経過して、さらに愛でるようになったのだなぁ、という感慨です。

グールドとはつまり、聖キース・リチャーズと、どこまでも対照的なふたりでありながらも、なんとも似ている存在だなぁ、と、そんな風に考えている自分がいます。つまり、どこまでも「あなた」に向けて、しかも、その時の気分(同じ演奏はあり得えない)で、奏でているのだなぁ、ということです。
コメント

わかんない

2017-01-24 23:18:27 | 日記
<六・五二 たとえ可能な科学の問いがすべて答えられたとしても、生の問題は依然としてまったく手つかずのまま残されるだろう。これがわれわれの直感である。もちろん、そのときもはや問われるべき何も残されてはいない。そしてまさにそれが答えなのである。>「論理哲学論考」ウィトゲンシュタイン(訳=野矢茂樹)

独我論のマイスターが、「われわれ」という単語を使っているのです。例えば四・一二ニや五・二一等においても、「われわれ」を使用していますが、おそらく、「われわれの直感」という使い方は、この箇所だけなのではないでしょうか。

「われわれの直感」とはつまり、あなたの、さらに、私の直感でもあります。そうして実際に、私自身の直感として、生の問題は手つかずのまま残っているのです。

なんともお寒い日々が続いていますが、今日はちょっと?(かなり?)「ほっこり」するような発言に接しました。確かに、「生」の未来だなんて、それこそ沈黙に値するようなことなのでしょうけれども、私は「まぬけ」ですので、語らずにはいられなかったのです!
コメント