まぬ家ごめ助

姓はまぬけ、名はごめすけ、合わせて、「まぬ家ごめ助」と申します。どうぞお見知りおきを。

エンドロールには早すぎる(エミちゃんへ パート2)

2013-10-05 15:47:02 | 日記
「小さな生き物」というスピッツのアルバムを、心の底から愛しています。奇跡のようなアルバムだと思っています。

中でもお気に入りは「エンドロールには早すぎる」で、この曲は、どれだけ深読みしようとも、底が知れないような魔法を秘めています。

<世界の果てはここにある>

あのね、<世界の果てはどこにある?>じゃなくて、ここにあるんだよ、って、そう草野さんは記している。

例えば7年後に、東京オリンピックは終わります。アベノミクスも、いずれ終わります。

<君の過去には触れない>

ってことは、そういうことなんじゃないかな。なんとなく、ね。

過去の結果や影響がどうであろうとも、その後の物語を私たちは築かなくてはならない。そのことに気付かなければならない。

だって、「エンドロールには早すぎる」んだもん。

君のくしゃみが聞きたいんだもん!
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柳楽優弥さん

2013-10-05 15:20:23 | 日記
柳楽優弥さん。特に思い入れのある俳優さんではないにも関わらず、特に思い入れのある3本の映画に主演しているので、なんとも不思議な俳優さんではあります。

「誰も知らない」「星になった少年」「包帯クラブ」。

その後、サトエリファンの私は、「すべては海になる」も観ましたが、これは酷かった。子役デビューの宿命として、やむを得ないことではあったにせよ、そこはもう、例えば水谷豊さんなんかとは、スケールの大きさが違ったんだろうな、って、そう思う。

ともあれ、前にも記しましたが、「包帯クラブ」におけるビルの屋上のシーンは、例えそれが変なプロレスラーの物マネであったにせよ、日本の映画史上に残るたぐいの名シーンだったと私は思っています。
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「視るだけの者」としての悲しみ(エミちゃんへ)

2013-10-05 15:04:30 | 日記
「キャパの十字架」著者=沢木耕太郎におけるキーワードがひとつあるとするならば、それは、次の一文に尽きると思います。

<同じ「視るだけの者」としての哀しみを見出し、「同類」としての共感を覚えるようになった。>

キャパも、沢木さんも、だからこそ、当事者であろうと、痛々しい「努力」をした。むろん、天性の才能を持ち合わせてはいた。キャパにとっては、カメラが武器になったし、沢木さんにとっては、それがペンだった。いずれにせよ、決して「同類」ではない、軽く三途の川を飛び越えてしまうような「行動力」という才能への憧憬があったということは、間違いないように思う。そしてそのことは、私自身も、「同類」として、共感を覚えざるを得ないことなのだ。

結局、私があなたの天性の行動力に憑かれているのは、そういうことなのです。「同類」ではないことの哀しみと、それゆえの、悦び。だって、そこにきっと、新たな強さとハーモニーが生まれるはずであろうから。お互いのコンプレックス、劣等感の中から、何かが生まれるはずだろうから。
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小休止

2013-10-05 00:56:05 | 日記
「007 カジノ・ロワイヤル」をDVDで観ています。

リビングに布団を敷いて、ぬくぬくしながら。

温かいほうじ茶を飲みながら。

たまにはこんな休日も悪くないよね。


オレは勝負事はからっきしダメ(特に対人ゲームが苦手、というか、下手。わかるでしょ。)な男ですが、ギャンブルってのは、99回負け続けても、ここぞ、って時に勝てばいいんじゃないのかな。

ただ、ギャンブルはそれでいいとしても、こと人生に関して言えば、師匠=色川武大が言う通り、8勝7敗程度が理想なので、ここいらへんのバランスが難しい。

つまり、どんな世界であれ、上には上がいるけれど、その天上の存在が、もしかしたら人生においては、1勝14敗なのかもしれないよ、というようなこと。

さらに、色川武大の世界においては、子や孫にまで、その星取表が続いていくのではないか、結局トータルでは、プラスマイナスゼロなのではないか、という話(仮説)に繋がっていきます。

む~


ところで。

ロバート・ハリスさんは、バックギャモンの達人でもあるわけですよね。

敵わないなぁ。

敵いたいなんて思わないけれど。


突然話を変えますが、私が父に連れられて、初めて映画館(歌舞伎町の東急だったな)で見た映画は、「007 私が愛したスパイ」でした。

1977年公開の映画。

「ちょっとエッチな映画だったでしょ」

帰宅した私に、母がそんな風に言っていたことを、鮮明に覚えています(笑)
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