極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

玉葱の涙から目薬

2013年11月29日 | 新弥生時代

 

 



【玉葱の涙から目薬】 

今年のイグ・ノーベル賞に、ハウス食品の研究チームがタマネギを切ると涙が出る原因となる合成酵素
を発見し、「An onion enzyme that makes the eyes water (目の水を生み出すタマネギ酵素)」の論文を発
し受賞したことは記憶に新しい。ところで、タマネギはネギ属に分類される植物
で、トマトに次いで世
界中で2番目に多く栽培され、世界各国で様々な料理に利用される野菜。タマネギの最大の特徴は、切
ったり、おろしたりした時に感じる独特の匂いと催涙性だ。この催涙因子(Lachrymatory Factor: LF)は、
もともとタマネギ中に存在するものではない。 LFは、タマネギの組織や細胞が破砕されたことにより、
タマネギ中で最も多い含流化合物のtrans-1-propenyl-L-cysteine sulfoxide:trans-PRENCSO)により分解され
て生じる1-propenyl sulfbnic acid を経て生成されるという。1-propenyl sulfbnic acidからLFへの変換は長い
間、非酵素的に進むとされてきたが、この反応には、催涙因子合成酵素(Lachrymatory Factor Synthase
LFS
)が関与していることが2002年に明らかになる。



この発見は、非酵素的に進行するために制御できないと考えられていたが、1つの特異的な遺伝子によ
って制御されていることが発見される。これは、遺伝子組換え、突然変異誘発、古典的な育種といった
手段による催涙性を示さないタマネギ作出の可能性を示唆。LFS発現量が少ないタマネギは、調理時の
催涙性がなく、低辛味タマネギとなる。さらに、遺伝子組換え手法を用いてLFS発現を抑制したタマネ
ギで特異的に生成される含硫化合物が、cydooxygenase-1やα-glucosidaseに対し阻害活性をもつと報告さ
れている。
LFS の発見の価値は、涙の出ないタマネギ作出につながることだけではない。trans-PRENCSO
alliinase、LFSの3成分を混合すれば、時と場所を選ぶことなくLF
発生が可能だ。この研究グループは京
都府を医科大学とドライアイ検査薬としての活用に取り組む。ライアイ検査法は約百年前に開発された
シルマーテストが今でも利用されているという。この方法は、被験者の下瞼にろ紙をはさんで一定時間
内のろ紙の濡れ具合を調べるもので、判定検査時の痛み・精度・検査時間が問題だったが、この研究の
LFS触媒反応解析を用いたalliinaseとLFSを浸み込ませ乾燥させたペーバーフィルターをカップの底に
置き、そのペーパーフィルターにtranss-PRENCSO溶液を滴下・密栓しLFを発生させ、その後、フタを開
けて被験者の目に当てるという検査法の研究開発が進んでいる。現在、(1)簡便・短時間で正確な検
査が行えることに加え、(2)老年性の知覚変化を検知できる結果が得られ、新たな検査法として期待
ていると言う。このように、タマネギがどうやって催涙性を示すのか明らかする一方で、さもそも、
タマネギが何のために催涙性を示すのか?という疑問には答えられていない。

 

 




【バイオマス燃料に注目】

アセトンーブタノールーエタノール(ABE)発酵により生産されるバイオブタノールは、バイオエタノ
ールと比較して(1)ガソリンに近いエネルギー量、(2)揮発性が低く取り扱いが容易、(3)腐食
作用を示さないため既存のインフラ設備や内燃機関の使用が可能、といった優れた燃料特性をもつ次世
代バイオ燃料として期待されている。一方、バイオ燃料生産には、(1)原料コストや前処理・糖化処理
など
発酵に適したリグノセルロース系バイオマス(LB)の創出と加工と(2)発酵における生産物濃度
生産性の向上などの工程に多くの課題があると言われている。これらは発酵工学分野を専門とする研究
者だけで解決できないため、LBを扱う植物育種学分野、遺伝子を扱う分子微生物学分野との連携がバイ
オ燃料研究の発展に必要不可欠だ。このような学際的連携からなる新たな総合的研究分野を、“スマー
発酵工学(iFermentech)”が提唱されている。ここで以下の三点の展望について俯瞰してみた。

※出典:スマート発酵工学によるブタノール生産(Construction of intelligent fermentation technology(i Ferm-
      entech))、野口拓也 田代幸寛 園元謙二、バイオサイエンスとインタストリー vol.7.No.6

        (2013)より


(1)発酵工学アプローチによる混合糖からの高効率的ブタノール生産プロセスの開発
(2)分子微生物学アプローチによる混合糖高資化性ブタノール生産菌の分子育種
(3)植物育種学アプローチによる発酵原料に適したLBのデザイン



まず第1点め。リグノセルロース系バイオマス(LB)の前処理、糖化処理後に得られるグルコース、
シロースを主に含む混合物を発酵原料とした場合、グルコースによりキシロースの消費が制限される

ーボンカタボライト抑制(CCR
)が生じる。セロビオースを混合糖中のヘキソース成分として用いた場
合、
野生株で初めてCCR(カーボンカタボライト:異化産物抑制)の回避に成功ししている(上図)。これま
の混合糖発酵に関する報告の中で最大のブタノール生産物濃度16 g/リットルが達成されている。
また、
発酵原料糖化工程の簡略化による糖化コストの縮減および発酵工程におけるCCRの回避を一度に
実現で
きる可能性がある。2点めは、近年混合糖の効率的な利用目的で、発現が促進(抑制)される遺
伝子の
同定、解析などが行われるようになり、CCR制御因子を破壊した育種株を作製し、CCRの回避に
成功し
ている。3点めは、リグノセルロース系バイオマス(LB)の構成成分であるセルロース、ヘミセ
ルロー
スを発酵原料には糖化酵素による糖化が必須でだが、糖化酵素の投入コストはバイオ燃料生産の
高コス
ト化の一因だが、LB自身に糖化酵素を生成させ糖化効率が改善するよう修飾(デザイン)する植
物育
核研究が行われ、発酵に適したバイオマス(デサインドバイオマス)の創出を目指した研究が進展し
てき
ている。


バイオマス燃料のメリット

バイオ燃料とは、生物資源を原料として製造される燃料のことです。主として現在は、ガソリンへの混
合利用を目的としたバイオエタノールと代替燃料としてバイオディーゼル燃料(BDF)の2種類がある。
バイオ燃料は、原料となる植物が光合成により二酸化炭素を吸収するため、燃焼させても二酸化炭素は
増加しないとみなされる、いわゆる「カーボンニュートラル」の燃料です。そのため、各国は温室効果
ガスの排出削減の手段としてバイオ燃料の導入を進めている。またバイオ燃料の導入促進には農業振興
という側面があり、バイオ燃料を導入すると、原料の生産農家にとっては農作物の新たな需要が生まれ、
取引価格が上昇または維持されることが期待される上に、自国の農業振興を図るため、バイオ燃料の導
入を進めている国の多くは、自国で生産される作物を活用してバイオ燃料を製造することを計画。その
ためエネルギーの自給率を向上させる一助となる。以上の結果「温室効果ガスの排出削減」「農業振興」、
エネルギー自給率向上」といったメリットが期待できる。
 

 

【日本経済は世界の希望(8)】 


 

                       格好の材料と化したラインハート&ロゴフ論文

  アレシナと同じく緊縮財政の御旗であったのが、ハーバード大学教授のカーメン・ラインハート
 とケネス・ロゴフの論文である。
  ラインハート&ロゴフ両氏の主張の骨子は「政府の債務残高がGDPの九〇パーセントを超える
 と成長が大きく停滞する」というものだ。両氏は公的累積債務というストックの量を問題視した。
   しかし、アレシナも、ラインハート&ロゴフも、どちらの主張も間違いだ。実際、マサチュー
 セッツ大学のトーマス・ハーンドンという大学院生などがその間違いを指摘した直後、それは大ニ
 ュースとして世界中をかけめぐることになった。
  “Growth in a Time of Debt(債務時の経済成長)"と名づけられたラインハート&ロゴフの論文は、
  二〇一〇年に発表されると同時に経済政策の議論で、試金石ともいえる地位を築いた。緊縮財政を
  推進する政治家にとって、これは格好の材料だった。発表された直後に経済政策上、これほど大き
  な影響を与えた論文は経済史において他に例がない。


                        緊縮財政推進派の学者はいあまや冷笑の的  

  この九〇パーセントという数字は、先の大統領選で共和党の副大統領として立候補したポール・
 ライアンや、欧州委員会のトップ・エコノミストであるオッリ・レーンにいたるまで、さまざまな
 と
ころで引き合いに出され、それが議論を決定づけるといってもよいほどの役割を果たした。この
 九
〇パーセントという数字が間違いだったというのだから、いまや論文の著者たちばかりではなく、
 緊縮政策推進派の著名な学者までもが冷笑の的になっても仕方がない。その後、本人たちは数字の
 間違いは認めたものの、理論そのものはいまでも正しい、と主張しているのだから、滑稽といわざ
 るをえない。
  緊縮政策といえば、即座にラインハート&ロゴフの論文が引き合いに出されるが、私からみれば、
 そもそもなぜこの論文がまともに取り上げられたのか、いまだに理解できない。最近読んだある本
 に学ぶなら、それは「政治」と「心理学」に関係しているのかもしれない。
  すなわち、緊縮政策は多くの権力をもつ人たちが「正しいと信じたい」と感じるような政策であ
 る。だからこそ、この論文が出てきたとき、彼らは「これだ」とばかりに飛びついたのだ。
  標準的な教科書によれば、歳出削減は全体的な需要を減らし、それが今度は生産高や雇用の減少
 につながるが、人びとは教科書に書かれていることを信じたがらない。緊縮政策推進派のドイツ人
 のエリートたち、アメリカの共和党メンバーは、ケインズ学派を大いに嫌っていたのである。


                            財政緊縮で民間に信用が生まれる?

  これに加担した要素が、二〇一〇年初期に発生したギリシャ危機だ。前政権が帳簿をごまかして
 いたために、予想以上に債務が大きかった。そこヘロゴフたちが緊縮政策推進の論文をタイミング
 よく発表したので、彼らの信用は不動のものになった。
 “lt's an ill wind that blows nobody good.”(誰の得にもならない風が吹くことはない。風が吹けば桶
 屋がもうかる)という諺があるように、ギリシャ危機は反ケインズ学派にとって、まさに天の恵み
 となった。
  経済が弱っているときに歳出削減を行なえば、その経済はさらに弱くなる、と私は確信している。
  そうした考え方は以前から変わっていないが、アレシナやラインハート&ロゴフの論文があまり
 に衆目を集めすぎたため、まるでケインズ学派の考えが間違っているかのように思われたことも事
 実だ。
  実際に二〇一〇年六月、当時ECB総裁であったトリシエは、イタリアの新聞『ラ・レプブリカ』
 で、緊縮政策が成長を阻むという懸念を一蹴した。彼は紙面ではっきりこういっている。
 「(デフレの危険があるのでは、という記者の質問に対し)そんなリスクが実現するとは思いませ
 ん。それどころか、インフレ期待は驚くほどわれわれの定義したもの-ニパーーセント以下、ニパ
 ーセント近く-にしっかり固定されていますし、最近の危機でもそれは変わっていません。経済に
 ついていえば、緊縮財政が停滞を引き起こすという考えは間違っています。(中略)じつはこうし
 た状況にあっては、家計、企業、投資家が財政の持続可能性について抱く安心感を高めることはす
 べて、成長と雇用創出の実現に有益なんです。私は現状において、安心感を高める政策は経済回復
 を阻害するどころか促進すると固く信じています。今日では、安心こそが重要な要因だからです」
 
  彼らの言い分は総じていえば、「断固として財政緊縮を実行すれば民間部門に信用が生まれ、こ
 の信用が財政緊縮のマイナス面を相殺する」というものだ。こうした考え方は、野火のように猖獗
 をきわめた。二〇一〇年四月、調子に乗ったアレシナはEU経済・財務相理事会でプレゼンテーシ
 ョンを行ない、それがそのまま欧州委員会の公式見解になった。
  そこで私がいくら声を大にして「緊縮政策は間違っている」といっても、ヨーロッパでは誰も間
 く耳をもたなかった。ギリシャは歳出削減と増税を実行し、その結果、財政赤字はGDPの一五パ
 ーセントパーセントにも相当する規模になった。アイルランドやポルトガルでもそれはGDP比六
 パーセントにまでなったが、歳出削減は毎年実行され、勢いはさらに増した。


                       理論と歴史の教訓を無視しだ政策決定者たち

  案の定、結果はひどいものになった。緊縮政策を強いられた国は、激しい経済の下降を余儀なく
 されたが、その逆効果の度合は緊縮の度合におおよそ、比例している。
  このデータをみて、IMFは「緊縮政策は大いに逆効果になる」という結論を出しただけではな
 く、その逆効果を過小評価したことを詫び"mea culpa(罪は私にあります)"という声明までをも発
 表したのである。
  緊縮政策が絶賛されてからわずか三年で、その政策が間違っていたことが誰の目にも明らかにな
 った。ヨーロッパで緊縮政策の悲惨な結果が表面化する前に、まずはアレシナの主張が崩壊した。
  米ブラウン大学のマーク・ブライスは、その新著“Austerity: The History of a Dangerous ldea”のな
 かで、「弱い経済のもとでの歳出削減は、さらに経済を弱くしてしまう」と指摘している。ブライ
 スは歴史上の例をあげながら、先進国の大幅な歳出削減のあとには、たいていの場合、経済成長の
 減速がみられると論じた。彼は「二〇一一年中盤までに、緊縮政策に対する経験則的、理論的な支
 持は静かに消え去っていった」とも述べている。
  しかし、ロゴフらの論文が崩壊するのには、もう少し時間がかかった。彼らの論文はあまりに立
 派で隙がなかったからだ。
  それを崩壊させたのが、マサチューセッツ大学の大学院生であるトーマス・ハーンドンだ。彼は
 データ解析の誤りを指摘し、世界中のメディアがそれを大々的に取り上げた。ロゴフたちは自らの
 主張を擁護しようとしたが、私からみれば、それは言い訳にすぎない。
  一連の緊縮財政の騒動からいえることは、政策決定に携わる者たちが、理論と歴史の教訓を無視
 しつづけてきた、ということである。私はずっと正しいことを主張してきたが、どれほど批判して
 も、一時期は誰にも聞いてもらえなかった。いまになってようやく、胸をなでおろしているところ
 だ。
  ラインハート&ロゴフ論文の崩壊は、「理論と証拠が最終的には重要になる」という希望を専門
 家に示したのである。

 

 





                         長期的な成長が勢いづいてきたブラジル

  中国経済のみならず、リーマン・ショック後、G20の台頭とともに語られた新興国の高揚感も失
 われた。BRICs諸国(ブラジル、ロシア、インド、中国)にはあきらかなバブルが発生し、人
 びとは新興国市場の魅力に投資を行ないすぎた。
  ロシアは基本的にはまだ、石油に基づいた経済構造である。インドは規制改革がうまくいった。
 中国に少し似ているが、遅れて独自の道を歩んでいる。もちろん問題がないこともないが、成長の
 見込みはかなりある。
  私が注目しているのはブラジルだ。中国よりもはるかに裕福な国で、長期的な成長がついに勢い
 づいてきたようにみえる。もともとブラジルは極端な不平等社会だった。その不平等を是正すべく
 行なっている努力は、これまでのところ奏功している。
  ブラジルの格差は一九九〇年代半ばから急速に縮小した。ハイパーインフレも収束し、二〇一〇
 年には黒人差別を是正するための「人種間平等法」が成立。当時、大統領の座にあったルーラ氏は、
 同法の署名式典で「ブラジルはこの法律によって、より公正な国になるだろう」と語っている。
  メキシコもブラジルと同じような造を歩んでいる。ラテンアメリカの二大経済はいまやその距離
 を近づけはじめた。それは歓迎されるべき事態であり、ハッピーな結果をもたらすだろう。
  残念ながら、ロシアはそのハッピーな話のなかに入っていない。インドと中国はよくなりつつあ
 るが、まだまだ貧しい国だ。
  人びとは一喜一憂する金融の側面と、現実の経済の側面を区別しなければならない。その現実と
 は、先進国よりもかなり速く新興国が成長している、ということだ。新興国の時代は終わった、と
 いう識者もいるようだが、そんなことはありえない。事実、国民一人当たり収入は少しずつ、先進
 国のそれに近づいている。


                           アメリカは世界のリーダーであり続ける

  これから十年後、国際情勢はどのように変化していくのだろうか。米欧日など主要先進七カ国で
 構成するG7も、新興国を加えたG20も機能しない「Gゼロ」とはユーラシア・グル
ープ代表であ
 るイアン・ブレーマーの言葉だが、十年後にアメリカはまだ、世界のリーダーで
ありつづけているだ
 ろうか。
  私の答えはイエスだ。中国はどこまで台頭するのか、ということが議論の対象になっているが、
 そうなるにしても、まだ先のことである。

  区別する必要があるのは、購買力平価(貿易障壁のない世界を想定すると、そこでは国が異なっ
 ても同じ製品の価格は一つであるという「一物一価の法則」が成立するが、この法則が成り立
つと
 きの自国通貨と外国通貨の購買力の比率)で評価したGDPと、名目為替レートを使用したドル換

 算のGDPだ。
  経済水準の異なる国でGDP比較をするときには、購買力平価で評価しなおしたGDPを用いる
 が、そもそも中国のGDPは水増しされているので、どのくらい信頼ができるのか、
という意見の
 不一致がある。

  その一方で元が世界の基軸通貨とみなされ、中国が世界の覇権を握るには、「名目為替レートを
 使用したドル換算のGDP」が重要になる。中国の元はまだまともな通貨とはいえな
い。市場では
 なく、政府がコントロールしているからだ。

  さらに、中国には価値観の問題がある。アメリカ、EU諸国、そして日本はさまざまな点で喧嘩
 はするが、共通の価値観をもった民主主義国家だ。そのなかに中国は入っていない。米欧日を合わ
 せたGDPと中国のGDPを比べたとき、まだまだ中国は小さなプレーヤーでしかない。
  一方、米欧日グループのなかの一位はもちろん、アメリカだ。アメリカとEUの経済規模はおお
 よそ同じだが、当然ながらEUとは違って、アメリカは単一の政府である。だからこそ、アメリカ
 は十年後にも世界のリーダーでありつづけるのだ。

                 ポール・クルーグマン 『そして日本経済が世界の希望となる』



 




【ドライブ・マイ・カー】 

  
  「急に運転手が必要になった事情は、大場さんから聞いているかな?」
  みさきはまっすぐ正面を見つめながらアクセントの乏しい声で言った。「家福さんは俳優で、今
 は週に六日、舞台
に出演しています。自分で車を運転してそこに行きます。地下鉄もタクシーも好
 きじゃない。車の中で台詞の練習を
したいから。でもこのあいだ接触事故を起こし、免許証も停止
 になった。お酒が少し入っていたことと、それから視
力に問題があったためです」
  家福は肯いた。なんだか他人が見た夢の話を聞いているみたいだ。
 「警察の指定した眼科医の検査を受けたら、緑内障の徴候が見つかった。視野にプラインドスポッ
 トがあるらしい。右
の隅の方に。それまではまったく気づかなかったんだが」
  飲酒運転については、アルコールの量もそれほど多くなかったので、内々に収めることができた。
 マスコミにも洩
れないようにした。しかし視力の問題については事務所も見過ごすわけにはいかな
 かった。今のままだと、右側後方
から近づいて来る車が死角に入って見えない可能性がある。再検
 査して良い結果が出るまでは絶対に自分で運転は
しないでくれと申し渡されていた。
 「家福さん」とみさきは質問した。「家福さんと呼んでいいですか? 本名なんですか?」
 「本名だよ」と家福は言った。「珍しい名前だ。縁起の良い響きの名前だけど、どうやら御利益は
 ないみたいだ。うちの親戚には金持ちと呼べそうな人間はI人もいないからね」
  しばらく沈黙があった。それから家福は、専属の運転手として彼女に支払うことのできる一月ぶ
 んの給料の額を告げた。大した額ではない。しかしそれが家福の属する事務所から支出できる限度
 だった。家福の名前はある程度世間で知られているが、映画やテレビで主役をはれる俳優ではない
 し、舞台で稼げる金は限られている。彼クラスの俳優にとっては、何ケ月かの限定とはいえ、専用
 の運転手をつけること自体が例外的な贅沢なのだ。
 「勤務時間はスケジュール次第で変わってくるけれど、ここのところは舞台が中心だから、基本的
 に午前中には仕事はない。昼までは寝ていられる。夜は遅くても十一時にはあがれるようにする。
  もっと遅い時間に車が必要な場合はタクシーを使う。週に一日は休みをあげられるようにする」
 「それでけっこうです」とみさきはごくあっさりと言った。
 「仕事自体はそれほど重労働じゃないと思う。きついのはむしろ何もしないで待機している時間か
 もしれない」
  みさきはそれについては何も言わなかった。ただ唇をまっすぐに結んでいた。そんなものよりき
 ついことは、これまで山ほど経験してきたという顔つきだった。
 「屋根を開けているときに煙草を吸うのはかまわない。でも屋根を閉じているときには吸わないで
 ほしい」と家福は言った。
 「わかりました」
 「何かそちらの希望は?」
 「とくにありません」。彼女は眼を細め、慎重にシフトダウンをした。そして言った。「この車が
 気に入ったから」
  そのあとの時間を二人は無言のうちに送った。修理工場に戻り、家福は大場を脇に呼んで「彼女
 を雇うことにするよ」と告げた。

                            村上春樹 『ドライブ・マイ・カー』
                               文藝春秋 2013年12月号掲載中

 

 

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