農僕日記 JAPAN

農薬を使わない農業を紀州和歌山でゼロからスタート。
農業は僕たちの平和活動♪ライフワークいざゆかん(^g^)(^y^)

63年

2008-08-21 | 旅僕日記一~四
~僕日記~
最近マッスルが、盛ってきました!!
鷹田家では、夜ご飯と晩酌した後、
さらにお酒をいただいきながら、
クイズ番組で盛あがるのが、日課です。
その時間帯、おじいちゃんとおばあちゃんは、
自分の部屋で日記を書いた後、おやすみします。 
おじいちゃんは、寝る前、枕もとにかけてある、
出兵した時(当時23歳)の戦友の集合写真に、
「今日まで生きました。。」と手をあわせるそうです。

鷹田家のおじいちゃん、86歳。
1943年、秋田県から、中国満州へ出兵→
1944年、フィリピンへ。
1945年、63年前の8月15日に終戦。
おじいちゃんの部隊(2000人くらい)では、
情報が入ってこない又は、途中で知らされないとかで、
9月25日まで戦闘体制だったそです。
武装解除までに残った兵は200人ほど。
戦死・戦闘で負傷した者、マラリヤや栄養失調。
自分で歩けないものは、みな置きざりにしていった。
生きるためには、そうせざるおえなかった。
何度かの戦闘で、
1分間に45発でる機関銃を撃ちまくったそうです。
何が何でもやるしかないし、そうするしか方法がない。
無我夢中で、迫ってくるものに銃を向けたそうです。
敵といわれる兵隊のほかに、
この部隊は、民間の村も襲った…。。。
武装解除後、アメリカの捕虜となり、
おじいちゃんは秋田県に帰ってきました。
それから毎晩、枕もとの集合写真に手をあわせています。

「実は、オリンピックはあまり気のいいもんじゃない…」
ひとさし指をたて、バッテン(×)をつくり、
ちょんちょん動かし、「僕は、争う事がいやだ。」
もちろん日本が勝てばうれしいんだけども、、
この『欲』が……。。
と、しみじみ話します。

1945年終戦の年。
東京大空襲があり。。秋田では、
8月14日の深夜に大空襲(←もう降伏するの知ってたはず)
沖縄本土での血戦。。
原子爆弾が、広島・長崎に投下。
日本でも、私×約80万人の民間人が、
無差別に犠牲になりました。

今でも、オリンピックの裏で、
バッテンバッテンばっかり目にします。
遠くをみたら果てしなく、嫌になりますが、
やっぱ足元からですヨね..
スイカでマッスル,マッスル!