『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

立体授業「でっかい鯰釣り」のテキストと指導⑤

2016年06月18日 | 学ぶ

明日が変わる、一生が変わる
 「一日がたいせつ、時間がたいせつである」と感じてはいても、なかなか生活習慣や行動の変化にまで踏み込めません。なぜなのか? 
 若いころには、「寿命のこと」を真剣に考える前に、「ほとんど無意識のうちに湧きあがる元気」に気がとられ、さまざまな「欲求」を処理する方に一日が消費されます。さらに、有り余る(と考えてしまう)時間に「切実感」は生まれません。

 逆に、年を重ねるにつれ、続けてきた生活習慣や行動パターンを変化していくための元気や活力が次第に低下していきます。ヒトの身体の中には「元気」や「昂奮」という「風船」があって、それが若い時には「エア・バッグより速く膨らみ、瞬時に勝手に身体が反応しまっている、制御が利かない」。しかし年を重ねるにつれ、エアバッグはあっても咄嗟には膨らまず、「膨らませなければいけない」という意識のもとで、「空気入れ」を取り出してエア・バッグをふくらましても、もはや間に合わない。また、「今更変えても」という「あきらめ」が先に立ちます。
 つまり、「何かをしなければならない、どうにかしたい」とは感じていても、若い時も年をとってからも、行動を起こすためには、「強い意志力がなければいけない」ということです「秀でた人」というのは、その意志力と行動力をもっているヒトだと思います。「すべてに対して、その自覚を前提にすること」が基本になります。

 子育て世代は、これら両極端の間を揺れ動き、なおかつ子どもの教育や老後のたくわえのために「金もうけ」に走らなければいけない。そんな一日ですから、さらにたいへんだと思います。
 しかし、自らはもちろん、子どもたちの成長においても、日々のかけがえのなさを冷静に、客観的に振り返る時間をたいせつにすること以上にたいせつなことはありません。その繰り返しが子どもの成長を育み、一生を規定し、自らの人生を形作るわけですから・・・。
 たとえば、ぼくはこの欄で、繰り返し自然体験や野外活動のたいせつさをお話しします。それは、その機会の有無によって、子どもたちのその後の成長がまったく変わってしまうからです。自らが今まで「見たもの、訊いたこと、習ったこと、考えたこと」という、それぞれの「日々の体験の積み重ね」がぼくたちを形作っていきます。さらに、そこには大きな「落とし穴」が隠れています。
 体験や経験の少ない子どもたちは、体験や経験の多い子どもたちより、日々の情報量は少なくなります。影響は一日だけでは決して終わりません。一つ一つの情報が、次の情報の取得を誘うからです。「五感から取り入れる情報それぞれ」に対して、その「取得の差」が繰り返される毎日が続きます。

 その経緯を団の立体授業を例に考えてみましょう。土筆ハイクの、「つくし」が「車中」で話題になっているとします。「何も知らない子」がその話題を耳にしても、ほとんどの場合、注意が向かわず、「右の耳から左の耳へ」と通り抜けてしまうでしょう。知らないものには興味の向きようがないからです。
 しかし、土筆ハイクで土筆を採ったり、「往来」の中で、気候や自然環境を眼にし説明を聞いて観察をしている子たちは、その話が耳に留まり、イメージのリフレーンが始まるはずです。思い返し、聞いた情報のなかに新しい意見や知識があれば、「それらも習得していく」機会が生まれます。
 そして、次は、それらをもとにして「考えること」や「考えるきっかけ」が生まれるはずです。その繰り返しは長い間には考えられないほどの差になります。無意識ながらも、次の情報、次の情報と幾何級数的に増えていくからです。倍々ゲームです。

 こうした経験のない、ふつうのお母さんやお父さん方は、「勉強といえば、机に座って参考書や教科書を開く」というイメージしか浮びません。しかし、ほんとうに勉強ができる子は、そういう豊富な、幅広い経験を積みながら、「環覚」を養い、深く考えることを始め、そのとき知識も(!)増やしていくのです
 「机に向かい受験用問題集を開き、それらを覚えて偏差値を上げる」という類は、「一面的な勉強」です。「それらの学習は学ぶことの些少な一部である」という認識に変えれば、「地に足の着いた賢さ」が身についた子どもが育ってくれるとぼくは思います。

 今年の立体授業も先の「土筆ハイク」から始まり、「デッカイ筍掘り」・「でっかい鯰釣り」・「化石採集」と四つ終わりましたが、その過程で体験したことや感じたこと、学習したことの「総量」は、先ほどの「次の情報収集へのきっかけ」も含め、やがて膨大な量になると自負しています。「すぐには目に見えない力!」を溜めながら継続する学習指導がどういう子たちを育てるか。その成長のようすは、四年間の、このブログの折々のOB紹介に目を通してください。
 そして、自然体験や外遊び。何よりも日々の子どもらしい体験によって、明日が変わる、その積み重ねで一生が大きく変わることに、もう一度目を開いていただけることを心から願っています。



でっかい鯰釣りのテキストと指導Ⅳ
 さて、立体授業、でっかい鯰釣りのテキストとスライド紹介。4回目です。なお、来年度のスライド・テキストは紹介の順番での構成です。
 もちろん指導する側の考え方によってさまざまな構成が可能です。いずれにしろ、子どもたちにぶつけて、子どもたちが「考える(主体的に・能動的になる)きっかけ」をつくることができれば、それが最上の構成なわけです。
 問題を提示し、「子どもたちが考える」というきっかけをつくること。発言や発表を求めることで、彼らの中で「自分の考えまとめる」・「それを理解する(正しく理解する・理解を深める)」という経験も始まります。
「抽象的な環境」の下で「講義を聴くだけ」という指導では、「考えるという作業(!ほぼ作業に終わってしまいます)」も受動的で限定的にならざるをえません。能力や指導力が高い(と思い、思われている)塾(や指導者)に限って、「実りの少ない」一方通行の指導が「まかり通っていること」も多いはずです。

16p 魚のからだのしくみとはたらき(「小学館の図鑑NEO魚」・「スーパー理科事典」受験研究社より。なお呼吸関連の一部のイラスト出典が資料散逸で不明です。関係者の方申し訳ありません)

ヒトのからだ・動物のからだ、ふだんそれらを見ても、ぼくたちは疑問を感じたり、不思議に思うことはあまりありません。ところが本来、「子どもたちはすべて不思議に思うことだらけ」のはずです。「大人の目線」の否定から指導は始まらなければなりません
 ぼくの印象では、ほんの十年前まで、子どもたちは「なぜなに攻撃」を仕掛けてくるのが普通でした。現在の子たちは昔に比べて、「環境や自然に対する不思議や疑問に疎くなっている(興味が少なくなっている)」と感じるのは、気のせいでしょうか?
 何かを見て不思議に思ったり、疑問が生まれてくるのが子どものはずで、そういう意味から言えば、「子どもらしくなくなってきた」のが今の子です。「頭でっかち」になっているというか、「すべて知っているつもり」になっているというか、そういう「冷めた感覚」は「大きく成長するための害になる」と、ぼくは考えています。

 「何でもない、バカみたいなこと」に、疑問を感じ、追求していくことで、偉大な発明や発見が生まれたはずです。それらが「学びを進める大きな駆動力」にもなります。
 シャンデリアが揺れること、リンゴが落ちること、逆に月が落ちないこと…。日ごろから「もの」を見て、不思議に思うこと、謎が生まれること。それらの追求と発見が「学ぶおもしろさ」を手に入れ、大きく成長するためのスプリングボードです。できれば、小さいころにそれらに対する目を開くこと。『環覚』の育成です。
 魚の眼がよく動くのはなぜ? 魚に鼻はあるのか? あるとすれば、どうしてそう思うのか。どうしてわかるのか?
 魚の身体の形が大きくちがうのはどうしてか? 魚の種類によって赤い身と白い身があるのはどうしてか?
 魚のひれはどんな役目をしているのか? 魚の口をよく観察すると? えらの役目は何? 

 それらの疑問を上記のスライド等(まだスライドや写真は追加することがあります)で考えていきます。「なるほど」という納得が次の学習の足掛かりになります。最後に「えら」が来るのは、次の「魚の陸上進出と呼吸の進化」への伏線です。
 魚のからだの写真の提示と「謎」の問いかけや提案で、「『メダカのひれの形で オス・メスを見分けるだけの学習』でない世界」が広がります。また、それによって対象を観察すること・ものをよく見ることのたいせつさも伝えることが出来ます。

17p ムツゴロウ(「小学館の図鑑NEO魚」より)
 「ムツゴロウ」の登場です。「魚の陸上進出」といっても、なかなかイメージがわきません。つまり、「そのまま」であれば『言葉による知識の習得』で終わります。それらがおもしろさを導くことは少ないし、覚えていても「クイズ」の答えになるだけです。ムツゴロウは子どもたちが興味をもちやすい魚です。また干潟は、田植えの「泥田」でイメージを補えます。陸上進出のイメージを、それぞれが補いやすくなります。

18p ヨシノボリ(「小学館の図鑑NEO魚」より)
 ハゼ科のムツゴロウ・トビハゼは、子どもたちが蛍狩りや渓流教室で夢中になって捕まえる「ヨシノボリ」の仲間です。子どもたちは姿・かたちがムツゴロウやトビハゼに似ていることに気づきます。また身体の裏の吸盤も、子どもたちの想像力を誘うきっかけになります。
 自分たちがふだんよく見かける魚が、進化の過程で出てくることで、周囲や日ごろ見慣れたものに対して「新しい視点」が生まれます。これらの経験の積み重ねが『環覚』の育成には欠かせないと考えているからです

19p 魚類の進化の系統(「小学館の図鑑NEO魚」より)
 「魚の進化」をたどってきたところで、無顎魚類・軟骨魚類・条鰭魚類・肉鰭類への流れをまとめます。この段階で、魚が固い背骨をもつようになった理由を考えてみます。条鰭魚類が筋の入ったひれが特徴で、現在の魚たちの大部分を占める、一番進化した魚であることも紹介します。
 「土筆ハイク」や植物の立体授業で、キク科がもっとも進化した植物であると紹介してあります。これら植物と動物の歴史を見届けることで、進化は「環境に適応するために生物の生きていくための工夫が生んだ歴史であること」がわかってきます。以下、次週。

「くりかえし」が創造の礎
 西村賢太さんの随筆集(題名は忘れました)をブック・オフで立ち読みしていて、横溝正史原作の映画を約100回(!)見たとの記述がありました。
 それだけ見ていれば、おそらく各シーンのつながりをアリアリと思い浮かべることができるだろうし、セリフも次から次と出てくるのではないでしょうか? つまり、創作は「くりかえし」によって、どれだけイメージを描いたか、イメージをたどる経験をしたか、というトレーニングが大きくものをいうのでしょう。「筆が走って話が生まれる」という類の作家の発想も、それら定着したイメージと自らの経験の「合作」です。

 「小説を書きたければ、気に入った小説を何度も筆写すればよい」というアドバイスを読んだことがありますが、それによって「きちんとイメージを浮かべ、作者の想像力の追体験をする」というトレーニングになっているからだと思います。
 素人は、ふつうそんなに何度も繰り返して見たり、読んだりすることはないし、意識を集中して、その「作業」を繰り返すこともないので、『創造』にまで至らないのでしょう。いずれにしろ、創造も学習も、「繰り返し」が大きな役目を果たすということ、「血肉化する」機会が欠かせない、ということなのです。

 今週のDVDは、「わが道を行く」と「スパイダー」。どちらも佳作です。


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