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石ころと星、宇宙の誕生と死⑪「クワガタを分ける」哲学

2017年07月29日 | 学ぶ

 前回「クワガタ探し」の課外授業の写真を掲示しました。今週は、現在の子どもたちの多くが抱えている問題点とその指導のようすについて紹介します。なお、今週の写真は過去の課外学習のものです。
 

捕ったクワガタは誰のもの?
 自然のもの相手の取り組みは、昆虫採集にしろ化石採集にしろ、欲しいものが、参加者全員の手に平等にわたることはあり得ません。参加者が同年代であれば、日頃からよく参加し要領も会得し、夢中になって探している子の努力が実り、「獲物」を手にすることがふつうです。
 そして、そんな場合は、まず手に入れた子の取得権を認めたいし、認めなければいけないと思います。たとえば、参加者が10人いて、5個(5匹)しか見つからなければ、「平等」は不可能だし、努力し探して手に入れた子、また運良くもゲットできた子の権利でしかたがないというわけです。
 残りの子も、欲しければ頑張って次の機会には何とか手に入れたいと努力する気持ちが必要です。もちろんその場合でも、手に入れた子が「ほしい子にあげる」自主的な優しさは、また別の話です

 かつての田舎のガキ大将がとった行動は、多くの場合そうでした。彼らのそんな行動によって、子どもながら、そのリーダーシップに学ぶべきものがあり、次の世代が育ちました。今は、腕力だけはあっても、そんな「精神作用」がある子はあまり見られません。
 また、運良く参加人数分(以上)見つかった場合、その分け方ではどう見ても不公平感は否めません。みんなで分ける方が自然です。特に今回の「クワガタ探し」のように、小さい子が参加したり、遠路はるばる日本に来た、経験のない外国育ちの、一回限りの子が参加した場合は、捕ったものを一旦集めて、できるだけ平等に分けるべきだと考えました。惻隠の情や思いやりも、そろそろ悟るべき年頃だと考えたからです。

 たとえば8人の参加で10匹以上捕れ、小さな子や不慣れな子がいるのに、持って帰る子と帰れない子ができれば、それはかわいそうでしょう? ひとりで三匹・四匹持つ子がいて、一匹も持てない子がいれば、みんなすっきりしないし、やはり不自然です。思いやるべきでしょう。喜びを分かち合うべきです。そしてみんなで分けるのであれば、平等な方法で分けることも必要です(今年はジャンケンをしたようですが)。
 ところが、こういう分け方をすれば、また問題が発生します。「自分が捕まえたものが自分の手に戻らない」というケースです。本来なら、そういう時こそ、リーダーシップを執れる子(腕白仲間であれば、ガキ大将)の出番なのです。今年は、リーダーに指名していた子が、急きょ病欠したこともあり、分配で少し揉めていたようです。

 こういう機会に子どもたちは様々なことを覚えます。子どもたちの、場面場面に応じたやり取りや問題解決法や判断のひとつひとつが、彼らの人格形成や仲間意識・リーダーシップをともなった成長にも影響し、その糧になっていきます。つまり、子どもたちの成長・人間形成は、こうした日頃の行動のすべてが、その礎になります

「わがまま」がもたらす「軟弱さ」と「せこさ」
 以前、赤目渓谷の川沿いで、躾をきちんとされていない体験参加の小学二年生が、団員が見つけた「カエル(!)」を横から奪い取ろうとして7~8メートル下に転がり落ちた話を紹介しました。

 参加者がたくさんいて、ぼくは別のグループと行動をしなければならなかったので、そのとき近くにはいなかったのですが、幸運なことに、落ちたところが草場で助かりました。マムシの生息域だから、一つまちがえれば、ひどいことになっていたかもしれません。ちなみに、「その時、お母さんは真横にいた!」ようです。
 この事例から学ぶべき教訓は、二つあります。
 一つ目はもちろん、『自分の欲望(ほしいもの)にしか目が届かないように育ててしまっていること』です。もう一つは、「『そういうふうに育っている子が危険な場にいるとき、どういう気遣いをしなければいけないか』に目が届いていないこと」です(自分の子がどういう性格で、どういうふうに育っているか冷静に見ることができていない)。

 おわかりのように、これらの状況は、「どちらも同じ原因」から生まれます。育てる側が、「必要な基準・広角な視点をもっていない(日頃から、様々な問題に対して、しっかり考え自分なりに結論を出していない、したがって判断ができない)という原因です。現在の子育ての大きな問題点の一つはそこではないでしょうか
 老婆心ですが、我が身を振り返っても、子どもの成長は驚くほど速く、待ったなしです。意識しないで済ましている、そのあたりの「あやふやさ」が、全部子どもにかぶさってきます。

 団を始めた二十数年前は未だ少なかったのですが、当然のことを教えられていない子が格段に増えてきているような気がします。「周り」や「足元」には目が配れず、自分の欲求や欲得しか考えない、考えられない。「他の子のもの」も、「隙あらば、自分のものに」というわがまま。考えたくないことですが、子どもたちの間で(も!)、そういう風潮が現在は蔓延しているのでしょうか。
 たとえば、「自ら一生懸命努力することもなく、虎視眈々誰かのすきを狙ったり、横取りしようとする」。一昔前なら(今でも同じでしょう)、「ずるいこと」「こざかしいこと」で、そうした行動は「恥ずかしいこと」・「男の子であれば、プライドにかかわること」です。そうした「振り返り」が見られない。以前、若いお父さんの「男らしさ」にふれましたが、どうもその辺りのバランスの欠如に大きな原因があるような気がします。

 先日、交番に「名前も伝えないように」と、ぼくの財布を届けてくれた「かっこいい人」の話をしました。よくよく考えてみれば、かつての日本人はこういう人たちの方が多かったはずです(明治維新から昭和までの外国人の滞在手記の数々の例をご覧ください)。これは懐古趣味ではなく、ぼくたちは今そんな方向にすすむことを願っているのか、という問いかけです
 時に耳にし、眼にすることがありますが、「落ちていたものは自分のもの(犯罪です)」、「貸してもらったものは返さない」、「黙っていれば自分のもの」などという考え方や判断基準がどんどん「浸潤!」してきつつあるように感じます。
 「小さな『倫理観のほころび』が子どもに伝わり、子どもの人格や将来にも大きく影響するかもしれない、という感覚」をぜひ持ち続けたいものです

 そして、これはお父さん方へのアドバイスですが、子どもが特に男の子が「軟弱」で「せこくなって」しまうことが、「大きくなれば、どれだけみっともないことか」、「陰での嘲笑や非難の対象になることか」、「自らの尊厳や評価を台無しにしてしまうことか」、しっかり伝えるべきだと思います。いわば、自分の「分身」ですから。みっともないでしょ。
 それとも、そんな判断や指導は現在しつけや教育の「蚊帳の外」になってしまっているのでしょうか。「他者の存在を意識する感覚」が磨滅してしまっている、そんな「傍若無人」・「せこさ」が蔓延する時代になってしまったのでしょうか。

 今、「お父さん」といいましたが、それはこういう理由です。
 ぼくは男性と女性という性の区別がある限り、おたがいに役割分担・「ないがしろにできないもの・してはいけないもの」が絶対あるはずだと思います。社会常識やルールを徹底できるのは、やはりお父さんではないでしょうか。男(性)の出番ではないでしょうか。 
 子どもの誕生ひとつとっても、その経過による愛情や感覚の醸成はまったくちがうはずです。その理由を、こう振り返ってみてください。
 「一年近く体内に宿し、その鼓動や動きを自分の体の一部として感じながら子どもの存在を感じていたお母さん(母性)」と、「自分のからだとは別の部分で成長し、その存在を客観的な視線で見られる父親の子どもに対する思い(父性)。はたして同じでしょうか?

  場面による主導権の差はあって当然です。どう見ても、「同じ愛情」と単純に簡単にひとくくりにする方が、愛情を深く丁寧に理解していない、と思います。
 もちろん、だからと云って、女(性)がそういう感覚をもちえない、というつもりは毛頭ありません。また誤解のないように申し添えておきますが、男尊女卑の思想にかぶれているわけではありません。ぼくは女性を人並み以上に尊敬しています

 「男(性)=父性」という存在や意識の崩壊が気になるだけです。男女平等や諸々とは、まったく別次元の判断です。子どもの成長は、感性や社会的意識、あるいは愛情の持ち方も含めて、両性の判断や指導が十分機能してこそ完結するのでしょう。男性女性の愛情を分け隔てなくうけて、健やかな成長が成就するはずです。
 そうでなければ、男性・女性が存在する意味がありません。虫や動物でさえ性差の役割分担は存在します。子どもに対する父親の出番を忘れないようにしたいものです。

それでいいのか? 四の五の言わずやってみなさい
 「クワガタ探し」では、里山の中(整備されているので、それほど危険はありません)をみんなで歩き回り、樹液の出ているようすや木の状態を説明しながらクワガタやカブトの捕まえ方を説明します。

 最初はみんな途方に暮れますが、話をよく聞いている子で自立心のある(できている)子は、自らそんな場所を探し、指導を振り返りながら、丁寧に見て歩きます。ちなみに、今年は「五歳(!)の女の子」が一人で指導通り根気よく見て回り、クワガタを二匹見つけることができました。
 ところが、「依頼心が強く甘やかされて育った子」は、なかなかそんな行動ができません。一人で探そうとしません。できないから手に入らない、「何とか簡単に分け前にあずかろう」とする、そんな堂々巡りです。一生懸命努力しているようすが見られれば、手助けしてあげようと思うのですが、そこまでもいきません。

 こういう性格については「育てる方は緊張感をもって厳しく」対処するべきだと、考えます。五体満足・元気も気力もある子が、がまんも努力もせず、わがままばかりいって「ほしいもの」を手に入れる(ようとする)・・・。そんな子がそのまま大きくなったときのことを考えましょう。
 なかには、それらの行動を叱り指導すべく、頭に浮かべるべき根拠や理由が思い浮かばない場合があるかもしれません。子どもの日ごろのようすを見て、きちんと教えなければならないこと・言い聞かせなければならないことをアドバイスしておきます。
 「自ら積極的に動き回り、頑張って努力を重ねさせる」しつけや指導が必要なのは、「何よりも本人のためだから」です。「どものことを何よりたいせつに考えるゆえの行為」だからです。
 脳やからだのしくみには、「『すべて努力や練習・トレーニングを重ねることによって』向上する、体力がつく、能力がアップする、つまり『自分でできるようになる、さらにその力を維持できる』」という「大原則」があります

 「免疫力」や「老化のしくみ」を考えてもすぐわかりますが、ヒトのからだを支配しているのは「廃用萎縮」の原則です。使わないもの・必要ないものは衰える、機能低下する。できるように、あるいは衰えないようにするためには、不断の練習や努力が不可欠です。つまり、「『使わない方向』・『楽をする方向』は、いずれにしろ成長とは真逆の方向」です。
 かんたんに例を挙げれば、人のまねをしたり、「コピペ」するだけの「手抜き」では、大したものは生み出せません。すぐ底が割れます。それ以外に「努力すること」を覚え、自らの「(行動)哲学」を築きあげてこそ、新しいものは生まれます。自らの成長があります。「真似をする」だけでなく、同時に努力することも教え(覚え)なければなりません
 お父さんなら、「苦労すれば、それだけお前の力になる・可能性が広がる・能力が身につく、だから四の五の云わずに頑張ってみなさい」ときちんと正面から教えるべきです。甘やかしてばかりいれば、「文句(いうこと)は一人前だが、自分では何もできない」、『わがままで軟弱なおとな』にしかなりません。
 「甘やかしているということがわからない」のかもしれませんが、もしそうであれば、手遅れにならないうちに(アドバイスするなら4年生までに)、世間をよく見て、冷静に「子ども」と「日ごろのふるまい」を振り返るようにしましょう。

 「子どもがかわいければ、立派に独り立ちしてほしければ、あらゆる機会を利用して、そちらの方向(自らで努力する方向・がまんして練習する方向)に導く」というのが、親としてもっともたいせつな務めだと思います。「がまんして努力すること」・「自ら率先して行動すること」を通じて、子どもは力をため、自信をつけ、一人前に育っていきます。
 考えてみてください。冷静に見直してください。「上手な人」の後について、その「おこぼれ」にあずかろうというような「せこい」考えで、自立して一人前になれますか? 世の中へ出て活躍できますか

 「先述の崖滑り落ち事件は、それらの基本的しつけの欠如の延長上に起きている」という事実も、ぼくたちは、もう一度次の言葉とともに振り返るべきだと思います。「自分の子をどう育てたいのか?(『どうなってほしいか?』ではありません。それでは今までと変わりません。かかわり方がちがいます)」 
 今の指導やしつけはまったく逆で、「何とか練習やトレーニングや我慢をしないで、『おいしい実り』を手に入れよう、手に入れさせたいという方向」に向かっている気がします(実は、その方向のままでは、たとえ手に入れても、消化できず後で腹を下すようになる方向なのですが)。

 「可愛い子には旅をさせよ」、つまり「『かわいい子』だからこそ旅をさせる」という、子どもに「自立心や力をつけさせようとする」『心の底から子どものことを思う、本来あるべき親心』が、「死語」になってしまった・・・。
 ちなみに、この「旅」は旅行をさせること(だけ!)ではありません。かけがえのない「日々の生活という旅」です。自分の「死後」ではもう遅い、と思うのですが、いかがでしょうか。

 「『金を儲けちゃ悪いんですか』というような寂しいセリフしか云えない大人になる」ことが理想なら、ぼくなんかが偉そうにしゃしゃり出る幕はありません。健やかな子ども、さらに、「心身ともにバランスのとれた人としての成長」を心から願う気持ちは人一倍強いので、ご理解をお願いします。
 なお、話題がそれますが、今週の「男はオトコ」の「写真」をごらんください。 「ぼけたんじゃないの?」のセリフを、「痴呆じゃないの?」に変えてみてください。おもしろくもなんともなく、ユーモアにはなりません。「差別用語」の制限推進意図とは全く逆に、「温かみ」も生まれません。かえって突き放した冷たさになってしまう無作為な差別用の判断や制定は、ユーモアの貧困や表現のやせ細りを招き、ぼくたちの「心の余裕」にも影を落とします。


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