
前回、今度はヴィスコンティの「ルートヴィヒ」が観たいなと書きましたが、考えをあ
らためまして、同監督の「山猫」にしました。
理由は二つあります。
一つは今年5月に誕生した京都市動物園のツシマヤマネコが、今月から一般公開され、
押すな押すなの大盛況だと知ったからです。
そして、そのツシマヤマネコの人気は京都市動物園だけにとどまらず、今や全国的に山
猫フィーバーに湧いているのは、皆さまご存知の通りです。
これが、ツシマヤマネコのお写真です。

山猫って、その名前のワイルドなイメージと違って、思いのほか可愛いでしょう?
ここまで、ツシマヤマネコが人気になったのは絶滅危惧種に認定され、世界で35匹し
か生存が確認されてないからだそうです。
京都市動物園では、去年も2匹ツシマヤマネコが生まれたそうですが、すぐに死んでし
まい、いわば京都市動物園にとって、ツシマヤマネコの繁殖と成長は悲願でもあった訳で
す。
ですから、全国的にツシマヤマネコに注目が集まっている今がヴィスコンティの「山猫
」を観るのにふさわしいように思われたのです♪
2つめは、この映画にフランスの俳優アラン・ドロンが出演していると知ったからです
。
アラン・ドロンは、私がちっちゃかった頃、大人の女性の間で、人気ナンバーワンだっ
たのです。
しかも、一般の女性ばかりか、女性の芸能人にもアラン・ドロンのファンが沢山いたの
です。
たとえば、歌手の太田裕美さんは「赤いハイヒール」という歌で「♪アラン・ドロンと
ぼくを比べて陽気に笑う君が好きだよ」と歌っていました。
また、榊原郁恵さんは「アル・パシーノ+アラン・ドロン<あなた」というタイトルの
歌で、当時、女性に大人気だった二大スターより、私の彼氏がもっと素敵だと歌っていま
した。
だから、世の女性たちは榊原郁恵さんがどんな男性と結婚するのか注目していたんです
。
ところが、そのお相手を知って、みなびっくりしちゃったのです。

榊原郁恵さんの結婚相手で、私は初めて「恋は盲目」という言葉を覚えました。(苦笑
)
ところで、最近、この人、テレビ番組のナレーションで、よく声を聞くようになったん
です。
プロのナレーターの方はこの人のナレーションをどう思ってらっしゃるのでしょうね?
というのも、私自身はこの人のナレーションは聞きづらく感じるのです。
もちろん、これはあくまでも私個人の感想ですから、すべての人が私と同じように感じ
るとは思わないのですが。
確かに、この人のナレーションは安定感のある喋り方なんですけど、なんだか、どうだ、いいだろう?いいだろう?と囁かれてる気がして、もうちょっと抑えて喋って、私に考える余裕を下さいって思っちゃうんです。
どうしてでしょうか?
そういえば、不倫相手がご自分のパンティをかぶった写真が流出して話題になったタレ
ントの斉藤由貴さんの朗読を、以前、聞いたことがあるのですが、その時も、聞きづらく
感じたんです。
その登場人物が置かれた状況などを説明する文章を読んでいる時はそうでもないのです
が、台詞の部分だけ、声の調子が高くなり、映画やドラマなどで、俳優さんが喋っている
ように、その人物になりきって喋っているんです。
それが、台詞以外の文章を読んでる時と、どうも調子が合わなくて聞きづらく感じてし
まうのです。
もしかしたら、俳優をしていることが関係あるのでしょうか?
聞きづらいといえば、NHKの「新・激動の世紀」のナレーションを勤めた男性もそうで
した。
確かに、声に透明感があり、滑舌がよくて、一見、聞き取りやすいナレーションではあ
ったのですが、どう考えても国際情勢や戦争にまつわる歴史に認識力が足りない人が喋っ
ているようにしか聞こえなかったのです。
調べてみたら、その人も俳優さんでした。
前回の「激動の世紀」でナレーションをした山根基世さんが良かっただけに、その差は
歴然としていました。
俳優さんは体全体を使って演技をするのを仕事にしてますから、声だけのお仕事は難し
いのでしょうか?
そう思っていたところ、先日、「中井貴一のサラメシ」というテレビ番組を観ていたら
、この声、本当に中井貴一さんなの?って思えるくらい、二枚目俳優としてのイメージを
かなぐり捨てて喋っておられて、これはなかなかお上手だなと心から感心してしまいまし
た。
だから、俳優さんがナレーションに向かないというのは一概に言えないんだなと感じた
次第でした。
あ、どうしましょう!
どうして、当時、女性に大人気だったアラン・ドロンから、こんなお話になってしまっ
たのかしら?(苦笑)
だけど、当の私自身はアラン・ドロンがなぜ、そんなにモテるのか、当時はちっちゃ過
ぎて分からなかったのです。
まず、どうして日本の男性を差し置いて、外人さんなのかが分かりませんでした。
それと、子供の頃の私にはアラン・ドロンが顔つきが悪く見えて、恐い感じがしていた
のです。
ちなみに、私が初めて好きになった外人さんは映画「小さな恋のメロディ」に出演して
いたマーク・レスターというイギリスの俳優さんです。

ね?
全然、怖い感じはしなくて、可愛く見えるでしょう?
だから、子供の頃の私には、アラン・ドロンの良さが、さっぱり分からなかったの
です。
でも、もしかしたら、今ならその良さが分かるかもしれない。
この2つが、ヴィスコンティの「山猫」を観たくなった理由でした。(笑)
それでは、前振りはこのくらいにして、本題に入らさせていただきます♪
この映画の山猫は、サリナ公爵の紋章を意味していて、イタリアの貴族を扱っています
ので、私は貴族そのものに興味を持っちゃいました。
何しろ、今の日本に貴族という階級はありませんからね。
貴族は、お金持ちや会社の社長さんとか政治家とも違いますよね?
貴いという漢字が入ってるくらいですから、裕福な財産のほかに、高貴で気品を持った
聡明な人というイメージが、私にはあります。
そして、様式を重んじる。
そんなところでしょうか?
しかし、この映画の主人公サリナ公爵(バート・ランカスター)を見た当初、私のイメ
ージと違ってたのです。
神父をダシにして、娼婦館に女を買いに行ったり、それを神父に見咎められて、「告解
なさい」という言葉に、「妻はことの前に十字を切り、神の許しを請う 7人も子を作っ
たのに妻のヘソさえ見ていない」と言う場面があるのです。
それに、アラン・ドロン演じる甥のタンクレディと、村長カロジェロの娘アンジェリカ
(クラウディア・カルディナーレ)の縁談に躍起になり、教会のオルガン弾きチッチョを
「お前を銃器室に監禁する。」と言ったり、チッチョの胸ぐらをつかむ場面まであるので
すから、性欲旺盛で、デリカシーに欠けて、乱暴で粗野な人というイメージしか湧かなか
ったのです。
だけど、そのイメージは見ているうちに覆されてきたのです。
そのすべての始まりは1860年、ガリバルティが、イタリア統一と、退廃した貴族社
会からの自由を目指して、動乱を起こした出来事にあったのです。
つまり、それまでの体制が一変して、サリナ公爵は貴族としての地位や財産に対する不
安が生じ、瀬戸際の時期にあったのです。
それは、新政府の役人ジュザレに上院議員の推薦を断る時のサリナ公爵のセリフにも
現れています。
「私は旧体制と結ばれた支配階級の人間だ。私は二つの世界にまたがっている。幻想さ
え抱いていない。我らは力尽き、疲れ果てた。永遠の眠りを求めている。我らの行為は死
への欲求なのだ。肉欲も忘却への願望。快楽に満ちた怠惰な時間は肉欲の静止を味わうた
め。
つまり、死だ。
シチリア人は向上を望んでいない。彼らは誇りを捨てるより、貧しさを選びます。
そして、ジュザレが去る時、サリナ公爵は誰に言うともなく、こう呟くのです。
「山猫と獅子は退き、ジャッカルと羊の時代が来る。
そして、山猫も獅子もジャッカルも羊も、自らを地の塩と信じている」と。
注(地の塩とは、キリストの教えで、腐敗を防ぐ塩のように、社会や人心の純化の模範
を表す)
このセリフで、サリナ公爵が貴族としての誇りを持っていることや、時代の変化に対応
を見せながらも、対応しきれずにあるがままを受け止めようとしている姿勢や、シチリア
人全体に思いを馳せていることがわかります。
余生幾ばくもない年齢のサリナ公爵は人生の一大転換の必要性を感じつつ、もう若くな
い自分に気づかざるを得ず、没落するのを静かに受け止めようとしているかのようです。
そして、舞踏会が終わり、サリナ公爵にタンクレディがお礼の言葉を述べながら、次の
選挙に立候補すると告げた時、その若く力強い情熱に打たれ、と同時に自分の老いと自分
の時代が終わったことに気づき、一人よろよろ邸を出るのです。
そうして、古い朽ち果てた石造りの塔を見上げた後、そのはるか彼方の天に向かって、
十字を切り、「我を守りし星よ。その永遠なる領域へ、いつの日に我を迎えるか」とひざ
まずいて祈りを捧げ、どこへともなく姿を消すのです・・・
初めはサリナ公爵どうかしら?と思わないでもなかったのですが、彼を取り巻く人間と
のふれあいや出来事を通して、次第に人生の重みや、深い哀感が感じられてきました。
私はサリナ公爵の姿を見ているうちに、だんだん、胸が締め付けられてくるようで、こ
の映画で最終的にもっとも魅力的な人物となりました。
肝心のアラン・ドロンの印象はと言いますと、私はアラン・ドロンに対して、ちょっと
悪そうなイメージを持っていたのですが、拍子抜けするくらい愛嬌があって、ノリが軽く
、イメージがガラリと変わってしまいました。(笑)
また、相手役のアンジェリカを演じたクラウディア・カルディナーレはマリリン・モン
ローやブリジット・バルドーと並んで、60年代を代表するセクシー女優だったようです
が、この映画ではそんなイメージは露ほども感じられませんでした。
この女優さんは、初めタンクレディの話に変な目つきをしたり、品のない笑いをすると
ころが気にならないでもなかったのですが、社交界にデビューした辺りから、ぐんと見違
えるようになりました。

タンクレディとアンジェリカの場面で印象的だったのは、二人が部屋でキスをしている
時、カブリアギ伯爵に別の部屋から声をかけられ、見つからないように、二人別々に部屋
から部屋へ逃げ込み、いくら呼んでも返事のないタンクレディに不安になったアンジェリ
カの姿が、恋する乙女の揺れる恋心を表現しているようで、ちょっと涙ぐんでしまいまし
た。
だけど、そのあと、タンクレディに向かって、あなたは強烈なマルサラ酒よと言って、
お熱いキスをしたり、沢山、部屋がある訳をタンクレディが「昔の人たちが、少しだけ掟
を破って、秘密の楽しみを味わったところさ」と言った時、「掟を破って?」と聞き直し
て、ゲラゲラ笑い出すのを見た私は、アンジェリカって背徳の楽しみを知っているなと、
ちょっと?いいえ、大いに見直してしまいました。(苦笑)
それにしても、なんて豪華絢爛な映画なんでしょう。
この映画はそれに尽きると言っても過言ではないでしょう。
完全主義者のヴィスコンティは、スタジオのセットは一切使わず、オールロケを敢行し
て、調度品や宝飾品などの貴金属もすべて本物にこだわり、この映画を作ったと言います
。
そればかりか、舞踏会に集まった貴族たちも本物の貴族たちを使って踊らせたとか。
そして、この映画を見終わった私は、ネオレアリズモの手法から生まれる圧倒的な現実
味あふれる演出で、没落していくサリナ公爵の姿を追い、時代の変化や世代交代を通して
、人生の哀感を感じさせてくれたヴィスコンティ監督に満腔の敬意を持って、挙手したい
気持ちになりました。