安倍さんが、どちらかと言うと好きだった。
政治のこととか関係なくね。

みんな、会いもしないで色々言うけれど、僕は会ってお話をして、握手をして、
「私たちには出来ないことをしてくれて…胸がいっぱいになりました。ありがとうございます。平団長は大丈夫ですか?」
そう言ってくれた。
握手をした手が柔らかくて温かく、
(この人にも家族がいて、応援してくれている好きな人たちが大勢いるんだよな。)と当たり前のことを思ったことを覚えています。
そして、そのふと思ったことが今も考えの底に残っています。

安倍さんがいなくなっても地球はまわる。
じいちゃんが死んでも、ばあちゃんが死んでも世界はグルグルまわる。
昨日見た仔猫が死んでも、それは同じ。
僕が死んでも、それは同じ。
当たり前であることなんて、ない。
その当たり前に感謝をしなければ、その日々は永遠に続くこともない。
青空応援団の講演の際に、必ず言うことがあります。
「つらい時に頑張るのは当たり前だけれど、幸せな時こそ頑張らなければいけないんだと思います。」
ところが人は幸せな時はなぜか努力をしない。
その状況を俯瞰的に見たり客観視することが出来ず、その状況に満足していない。
仕事で言えば売上とか数字の状況がいいからこそ、努力したり新しいことにチャレンジしたりしなくちゃいけない。
益々の努力をして期待の範囲を上回るからこそお客様に喜んでもらえたりするもので。
でも、人は決して満足しないからどうするかというと人の粗探しをしたり「ナニカ」のせいにしたりする。
ひどいと妬んだり、恨んだり、裏切ったりする。
凄そうなことは大きく派手に見える。
でも大切なことは小さかったり、場合によっては目には見えないのかもしれないね。
信賞必罰って大切だと思う。
でも、それは個人間の感情なんて邪魔なだけだし絶対に入れ込んではいけない。
僕たちは人を殺してはいけない。
人の心も殺してはいけない。
敵討ちであっても?
多分、それでも殺してはいけない。
その人が愛されて育ったとか、頑張って取り組んだこととか、履歴書には書く欄がないことなんかを全て何も知らない人が踏みにじるようなことだと思うから。
僕らは11年前に思い知ったはず。
「ありがとうの反対は当たり前」
仕事があることも、命の危険がないことも、音楽が聴けることも、ご飯が食べられることも。
目には見えない日常は「あたりまえ」ではなくて「特別」なもの。
誰かの努力の上に成り立っているもの。
そう感じることが出来れば、人はきっと強くなれるんだろう。
安倍さんのピアノ、素敵だったね。
ピアノが弾ける人なのではない。
ピアノが弾けるように努力した人なのだ。
総理大臣だったのではない。
総理大臣になる努力をした人なのだ。
その先に好き嫌いや考え方の違いはあっていいと思う。
でも。
その人の。
その人が小さかった頃の思い出やマッスグだった頃の気持ちや思い出までをも殺してしまうのと変わらないから
人を殺すのは、ダメ。
平等に、ダメ。
僕はそう思います。