アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

993回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㊽

2023-03-22 08:18:19 | 日記

④         春日の局  遂に幕府に宣戦布告した。

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 従来からの通説では、差し迫った事情というのは、天皇の腫物による「鍼灸治療問題」だと言われている。腫物とは、腫瘍のことで民間では、「でんぼ・おでき」とも言う。現代なら外科手術で切除できるが、良性のものでも熱や痛みを伴ったりすると命の危険を伴い厄介なものだった。当時は、針灸がよく効くとされたが、玉体(天皇の体)には鍼灸はタブーとされた。従って、譲位して自由な身となって治療を受けたかったというのだ。後水尾天皇は、基本的にはとても健康だったのだが、腫物ができやすい体質だったらしく、よほど悩ましい状況だったのだろう。因みに、叔父の八条宮智仁親王が同じ病で死去している。

 しかし、最近の研究ではそれは、譲位する「口実」であり、便宜的な理由でしかないという見方が有力だ。やはり本当の理由は前項で述べた「紫衣事件」である。しかし加えて、さらに許しがたい事件が重なった。それが「春日の局」参内問題である。以下、緊迫感ある経緯を時系列で書くと。

寛永6年 8月    幕府、天皇へ譲位の延期を要請

8月27日 和子女子出産(またしても徳川家血統の男子誕生の夢破れる)

             これを受けて、家光の乳母「お福」を使者にして天皇の実情を伺いに派遣決定

    10月10日 お福改め「春日の局」 天皇に拝謁し天盃を賜る

    10月15日 後水尾天皇から土御門泰重に密命降る

    10月24日 宮中で神楽 春日の局のみ見学(後水尾参加せず重大決心をする)

    10月27日 土御門泰重に女一宮を内親王に叙すことでの調査指示   

    10月29日 女一宮(東福門院和子長女・明正天皇)を内親王に叙す

    11月 2日 中院通村を大納言に昇任

    11月 8日 公家衆に伺候命令  その場で譲位伝える。

 以上の経緯を眺めると、そこまでの許しがたい状況に加えて、無位無官の武家の娘「お福」が幕府の使いとして参内することがきっかけになって、後水尾天皇がにわかに行動に移していることが分かる。因みに、お福とは、本能寺の変における明智光秀の第一の侍大将であった斉藤利光の子である。本来なら、「謀反人の子」なのだが、家光の乳母として大奥に揺るぎない地位を築いた女性である。簾内とは言え無位無官では天皇に拝謁できない為、急きょ「従三位春日の局 藤原福子」の称号を与えた。何故、これほど光秀ゆかりの人物を重用したのだろうか。「本能寺の変」を徳川家康の陰謀とする説は、このような事実から出ている。話を戻す。従来なら、このような重大決定は幕府に許可を取るか、せめて事前に伝えなければならない。その様な手続きも飛ばしている。

 遂に、幕府に宣戦布告したようなものだった。最後は、一人の公家とも相談せずおひとりで決断したようだ。しかし、もっと許せないことがあった。


992回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㊼

2023-03-15 10:28:44 | 日記

③         紫衣事件  朝幕の力関係は幕府優先が確定した。

 

紫衣事件はナゼ起きた?そもそも紫衣とは?そして後水尾天皇は ...

 さらに後水尾天皇の君主意識を傷つける事件が起こる。「紫衣事件」である。僧侶が身に着ける法衣・袈裟の色に紫を使う事は最高の地位を現わすものだ。古来より朝廷が許可を出す。当然、朝廷の大きな収入源でもあった。ところが、慶長18年(1613年)の「勅許紫衣法度」と慶長20年(1615年)の「禁中並公家諸法度」で、幕府はみだりに朝廷が授けることを禁じた。ところが、後水尾天皇は従来通り十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えていた。そして幕府は、なんと寛永4年(1627年)になって、法度違反だと多くの勅許状を無効にした。当然、幕府の突然の強硬な対応に朝廷は強く反対した。

 この事件の不思議なのは、最初の「法度」から14年、「禁中並公家諸法度」からは12年たってから何故ここで問題となったかである。この間、ずっと有名無実化していた法度であり、紫衣を許された僧侶が複数いる事を幕府も将軍も知っていたのである。ここで活躍するのが、金地院崇伝である。南海坊天海上人と並び江戸初期の幕府の政策全般に関わった政治家であり高僧である。特に「黒衣の宰相」と呼ばれた崇伝は、この年(寛永4年)になり、江戸城で一つの覚書を提出する。その内容はつまり、「元和の法度」(慶長20年改め元和元年)以降の出世(勅許)を尽く無効としたというものであった。浄土宗だけでも29通の綸旨(勅許)が無効とされるもので宗教界はパニック状態に陥る。朝廷のみならず有名な高僧が次々に抗議し、大徳寺の沢庵宗彭和尚や玉室宗珀、江月宗玩が、「抗弁書」を提出した。崇伝は、「甚だもって上意にかなはず」として一蹴した。結果、沢庵、玉室の二人は配流と決まった。因みに崇伝は、この頃京都では、「天下の嫌われ者」と言われた。

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 さて、後水尾天皇はこのことでどう対応したか。元和以来の多くの綸旨が無効にされ、大徳寺や妙心寺の高僧達が、不届きものとされ衣をはがされ、さらに流罪に処されたのである。言わば、天皇ご自身ののど元に刃を向けられたようなものであった。「主上にとってこの上の御恥はないとの儀」と細川三斎(忠興)は述べている。この事件は、勅許よりも法度、天皇よりも将軍が上であることを天下に知らしめたに等しい。まさに朝幕の力関係は幕府優先が確定したのであった。

 後水尾天皇は、再び譲位を武器に戦いを挑んだ。この時、天皇が詠んだ御製は。

「 思う事 なきだにいとう世中に 哀れ捨てても おかしからぬ身を 」 である。

ここで、重要な事は、中宮徳川和子との間に男子の誕生はあったが、いずれも早世であったことだ。女一宮のみが生育していたので、幕府は譲位を許すと徳川の血統は一代限りになってしまう事である。なんとしても二人の間に健康な男子が誕生することが切望された。

 しかし、後水尾天皇にはもっと差し迫った「事情」があった。


991回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㊻

2023-03-14 09:10:59 | 日記

②         およつ御寮人事件 青年天皇の恋心を踏みにじられ幕府への敵愾心が。

 

部下不信」だった徳川家康の江戸幕府は、なぜ260年も続いたのか ...晩年の家康

 後水尾天皇の最初の戦いは、女性問題である。徳川家康は生きている間に、幕府政権を盤石にする為の二つの大きな仕事が残っていた。一つは豊臣氏の抹殺である。関ケ原の戦いの結果、一大名の地位に成り下がった豊臣秀頼だったが、反徳川勢力の象徴的存在である事は間違いなかった。秀頼・淀君に対して、戦乱で荒廃した京都の巨大寺院の再建を促して、その膨大な財力を削ぐよう仕向けたりした。それでも心配で仕方ない。遂に、方広寺の梵鐘の銘文にイチャモンをつけて戦いを仕掛けた。大阪冬の陣・夏の陣である。

方広寺(京都)の地図アクセス・クチコミ観光ガイド|旅の思い出方広寺の梵鐘

そして、もう一つの仕事は、徳川家から朝廷への「入内」である。自らの孫娘を天皇の后にすることで外祖父の地位を獲得することである。藤原摂関家の手法と同じだ。秀忠の第5女和子(まさこ)が、慶長12年に誕生していてこの姫を候補に考えていた。後水尾天皇の12歳下ということになる、やや無理はある。因みに、幕末将軍家茂に嫁いだのは、「和宮」で、名は、親子(ちかこ)である。それぞれ立場は反対だが、公武合体の運命に翻弄されたお二人の姫である。

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 しかし、入内直前に大変な事が発覚した。後水尾天皇の典侍(そば近くに侍る女性)である四辻御与津(およつ)に子が出来ていることが発覚したのだ。すでに20代半ばになっていた天皇に子が出来たことに何の不思議もないのだが、出来た子が皇子であったこと、さらに和子の母が「お江与の方」であることだ。お江与の方とは、淀君の妹であり信長の妹お市の方の3姉妹の一人である。戦国の渦中に生きたお江与は、極度の「悋気」持ちであった。因みに、秀忠の隠し子保科正之は、会津藩初代藩主という優秀な大名になったのだが、お江与の怒りを恐れて生涯父子対面は叶わなかったほどだ。そのお江与が後水尾天皇に対して激怒したのである。

 結局、およつの兄四辻季継を含む公家衆6名に対して、流刑などの重罪が下された。さらに、およつ自身も程なく洛外に追放される。そのあたりは川口松太郎氏の名著「およつ御寮人」に詳しい。そしてその事は、後水尾天皇の逆鱗に触れた。因みに「逆鱗」は天皇にのみあるもので、庶民に逆鱗はない。しかしこの時代、武士との戦いに手段は限られている。唯一の手段は、「譲位」だった。後水尾の最初の戦いだ。

 ここで、戦国武将の生き残り藤堂高虎が登場する。身長190cmに及ぶ武闘派だが、生涯に9人主君を変えたという世渡りの上手い高虎は、天皇に公武合体を強要し、公家衆を通じて、「此儀我等不調法に罷成候はば、切腹仕り候までにて候」と、脅した。後水尾は事実上の初恋の女性とその子との別れを突き付けられたのである。およつとの年齢差は不明であるが、魅力的な女性であったのだろう。川口氏の小説では、岩倉の山荘「幡枝御所」(現在の圓通寺)にお忍びでしばしば会っている。その後もう一人皇女(梅宮)も生まれている。この梅宮が後の文智女王で和宮(東福門院)とも深く交流する。因みに問題となった最初の皇子は早世している(幕府による暗殺か)。生きていたら天皇の地位にもなるお子であったはずだ。

りか🎀 on Twitter: "#葵徳川三代 見ていたら、映画関ヶ原で ...後水尾天皇 イメージ

 青年天皇の恋心を踏みにじった幕府への敵愾心は、後々まで影響する。


990回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㊺

2023-03-13 09:46:13 | 日記

・後水尾天皇

後水尾天皇 - Wikipedia子 後水尾天皇第107~108代天皇 後陽成天皇~後水尾天皇 | 日本の歴史を分かり ...父 後陽成天皇

①         父子不仲   即位そのものを希望していなかった。

 時代は一気に戦国から江戸時代初期に飛ぶ。後醍醐天皇以降の天皇は武士たちの権力争いからは遠ざかり文化・伝統の継承に専念した。専念せざるを得なかった。しかし皇室の経済基盤は大きく損なわれ即位そのものを経済的理由から断念した天皇もいた。前天皇が崩御すれば「践祚」するのだが、前天皇の大喪の儀と新天皇の即位式は、膨大な資金がかかる。もはや皇室には古式に則った儀式を行う経済力は無かったのだ。信長の父、信秀が御所の筑地塀修復に資金を出したところあたりから天皇家の権威を求める動きが見受けられる。

 後陽成天皇の第3皇子が第3章の主役は政仁(ことひと)親王、以下後水尾天皇という。その生誕の頃は、勇者が戦い続けた戦国時代の終焉を目前にした慶長元年であった。父後陽成天皇は、早く譲位して院政を行いたかった。戦乱の世の中が続き、皇室の権威が失墜した為、長く院政という時代がなかった、いや出来なかったのだ。幼い自分の子である天皇を支えて父が「院政(治天の君)」を行うのは、朝廷権威の象徴だった。しかし、譲位や即位には余りにも莫大な金がかかる。そのような資金力は朝廷単独では到底無理だった。

 後陽成天皇は、しばしば譲位を申し出るものの、徳川家康が許さなかった。後陽成は子への愛情が薄かったのか、なぜか第1皇子も第2皇子も門跡寺院に出してしまった。実は、弟の八条宮智仁(としひと)親王への譲位を考えていた。しかし智仁親王は、以前豊臣家の養子となっていたことがあり、徳川幕府からは承認されるはずはなかった。因みに智仁親王は、その後「桂離宮」を造ったことで有名だ。

 幕府からは、仕方なく第3皇子の後水尾天皇への即位を勧められる。従って、後陽成自らの意志というより幕府の後押しで即位となった。その為、後水尾との親子関係は終生良くなかった。譲位後も、諸道具や書類を引き渡さないなど険悪なムードさえあったという。即位の経緯以外何か理由があるのか、自身の臨終の際にも臨席を許さなかったようだ。

因みに、水尾天皇とは、右京の水尾村に御陵がある平安初期の清和天皇のことだが、清和天皇も本意ではなく、兄の惟喬親王がいながら政治的理由から即位している。当時は、藤原良房の時代でありその権力闘争の結果であったのだ。生前から同じ境遇の水尾の追号を望んだのである。後鳥羽、後醍醐とは、事情は異なるが前天皇の第1皇子から平和裏に即位したものではなかったのは同じだ。違うのは、即位そのものを希望していなかった事だ。以下に詳しく書く。


989回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㊹

2023-03-10 08:54:53 | 日記

⑥ 後醍醐の失敗 「王朝時代の終焉」

建武の新政イメージ

遂に後醍醐天皇の「失敗」について書かねばならない。ここでは兵藤裕己氏『後醍醐天皇』(2018年)を参考にする。まず、兵藤氏は時代を俯瞰するならば建武政権は、「王朝の歴史物語の終焉」だと述べている。ここまでは天皇を中心とした公家の権力闘争を軸に、それぞれの派閥に豪族であったり武士集団が離合集散して来た。「薬子の変」から始まった平安時代の戦乱は、しばらく平和な時代を経て、「保元・平治の乱」を境に頻繁に起こる。その後の平家滅亡から承久の変に至る戦乱もすべて王朝内の権力闘争や閨閥闘争が関わって来た。源平合戦も公家の代理戦争が発端だという。雅(みやび)であるはずの王朝物語がしばしば戦乱の原因を作ってしまっていたのだ。しかし、後醍醐天皇の失敗以降は、完全に武士が主役であり「応仁の乱」では、全く皇室の関与はない。

さて、後醍醐天皇の失敗のキーワードは、「無礼講」と「下剋上」である。「無礼講」は、「破仏講」とも言われ仏教の教えを忘れ「宋学」にかぶれた連中の集まりを意味した。儒教とも言われる朱子学思想は、王道にもとづいた皇帝専制的な官僚国家をめざすものである。楠木正成や名和長年のような「在野の士」「草莽の臣」を登用するのはその象徴的なことでもある。在野とか草莽という言葉を聞いていると、幕末勤王の志士を思い浮かべる。建武政権の本当の実現は、明治維新まで待たねばならない。後醍醐の倒幕の真意は、「東夷(鎌倉)に天誅を下す事」だったのである。維新の志士たちの憧れの※児島高徳もこの時代の英雄だった。しかし、彼ら悪党たちはやはり、「怪しき人々」であった。

そして「下剋上」である。破格の昇進を遂げた彼らと天皇を結びつける回路は当時まだ用意されていなかった。また、建武政権の批判で有名な「二条河原落首」を書いたのは相当な知識人だと言われるが、楠木や名和たちが、「キツケヌ冠上ノキヌ」をまとい、「内裏マジハリ」をするさまは、既得権を奪われた公家からすれば憤懣やるかたない気持ちであったろう。「名器は濫りに人に仮さず」とは、官職や位階はみだりに与えるものではなく、あくまでも「先祖経歴」の先例に従うべきとする高級公家たちには、建武政権とは上下の秩序を乱す政治としか見えなかったのだ。その不満分子には、南朝重臣の北畠親房や顕家親子も入っていた。三公(太政大臣・右大臣・左大臣)や摂政・関白を置かない天皇親政は、結果として、三位以上の高級公卿を「国司」という「碑官」に任じるなど、官位のデフレを招いた。落首で「物狂いの沙汰」と言ったのはそのような既得権益を守ろうとした守旧派の発言だろう。結果として、大半の公家、多くの御家人の不満を生んでしまったのだ。

承久の乱の時の、後鳥羽上皇は「倒幕」というより、北条義時一人を成敗しようとしたことは前章で明らかとなったが、後醍醐天皇は幕府のみならず自分以外の既得権をすべて成敗しようとしたのだ。この後、歴史から朝廷が主役になることはなくなる。残念ながら天皇も歴史を牽引する力がなくなる。江戸時代の光格天皇を経て、その真の実現は「明治維新」まで待つしかない。

なお、南朝が正統とされたのは、徳川家康公が足利幕府のあとを受けて徳川幕府を開く時、足利氏を否定する為に源家新田(義貞)流を標ぼうしたからである。さらに、幕末の王政復古の大号令は、関白・摂政など一切おかない君主国家でありまさに「建武政権」の再来であった。その後の皇国史観の中で、「臣民」とか「国体」などの思想を進める為には南朝を正統とする以外に選択枝はなかった。

なお、後醍醐天皇の諡号は、本来なら怨霊を恐れて、崇徳や安徳、顕徳(後鳥羽)・順徳などの徳のつく諡号が贈られるはずだが、ご本人が生前から希望していた為、後醍醐院とされた。遺言は、「玉骨はたとえ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望んと思ふ」(私の身体は南の吉野で白骨になるけど、魂は常に北の京都奪還の執念を持ち続ける。)といった大意である。

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※         鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍したとされる武将。備前国児島郡林村出身。

隠岐に流された天皇の奪還を断念せざるを得なくなった時、傍にあった桜の木へ「天莫空勾践 時非無范蠡」(天は春秋時代の越王・勾践に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう)という漢詩を彫り書き入れ、その意志と共に天皇を勇気付けたという。