第4章 光格天皇 皇室史上最大の危機?
① 傍系からの天皇 「不測の天運」による即位
光格天皇 衣奈塚(上京区 清荒神)
江戸時代の天皇は、108代後水尾天皇以降、幕末の121代孝明天皇まで、皆さんは何人の天皇をご存知だろうか。この間、皇室は「禁中並公家諸法度」に縛られて幕府の言うがままに、細々と血統を継いで来た。従って、庶民とは関係なく御所奥深くに政治的には全く無意味であったというのが定説だ。
しかし、江戸時代の天皇の課題は、応仁の乱から戦国時代に多くを失った宮中における「朝議」の再興への戦いであった。「大嘗祭」という天皇即位時の新天皇の神秘性を獲得する為に欠かせない大変重要な儀式でさえ、実に1466年以来200年以上途絶えていた。なんとか貞享4年(1687年)になって東山天皇により復活した。しかし、これは十分なものではなく古式に則った本格的なものには程遠かった。それでも、葵祭などの各寺社の例祭などもこの時期に多くが復活している。しかし、幕府の財政的援助がなければできない事であり、そこに「武士との戦い」があったのである。
そこで「血統の維持の為、武士と戦った天皇たち」で最後に紹介するのは、その戦いで勝利した天皇である。
その主役、光格天皇の即位も普通ではなかった。江戸時代も後期に入る宝暦12年(1762年)116代桃園天皇が崩御した時、皇太子の英仁親王(後桃園天皇)が幼少であった為、姉の緋宮(117代後桜町天皇)が江戸時代二人目の女帝としてつないだ。英仁親王の成長を待って、明和8年(1771年)118代後桃園天皇が即位する。しかし、後桃園も在位8年22歳で早世する。ここで、長く繋いできた皇統が断絶の危機をむかえる。しかし皇室は、予めこのような事態を想定して親王宮家を創設していた。それは、113代東山天皇の御代に、「正徳の治」で有名な政治家新井白石の進言で、新たに閑院宮家を創設していたのだ。その2代目当主典仁親王の王子が候補にあがった。祐宮(さちのみや)という119代光格天皇の登場である。安永8年(1779年)天皇9歳の時であった。典仁親王の6番目の男子であった祐宮は、兄弟のほとんどがそうであるように、すでに門跡寺院である聖護院に入ることが決まっていた。まさに「不測の天運」による登極であった。
光格天皇
この光格天皇にとって幸いだったのは、まず後桜町上皇という存在である。再従姉弟という関係になるが、女性であり所謂「院政(治天の君)」というものではなかった。また、当時の関白九条尚実は非常に高齢で出処も適わないほどであった。また、それを継いだのが光格天皇にとって実の叔父の鷹司輔平であった。(父典仁親王の実の弟)そのような事から、天皇は即位後若くして遠慮することなく、自ら親政を行う環境が整っていた。
しかし、即位後すぐ数々の事件が起こる。この当時、天明の大飢饉の最中でコメの急騰による社会不安の真っただ中であった。ここでさっそうと青年天皇が登場するのである。