アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

990回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㊺

2023-03-13 09:46:13 | 日記

・後水尾天皇

後水尾天皇 - Wikipedia子 後水尾天皇第107~108代天皇 後陽成天皇~後水尾天皇 | 日本の歴史を分かり ...父 後陽成天皇

①         父子不仲   即位そのものを希望していなかった。

 時代は一気に戦国から江戸時代初期に飛ぶ。後醍醐天皇以降の天皇は武士たちの権力争いからは遠ざかり文化・伝統の継承に専念した。専念せざるを得なかった。しかし皇室の経済基盤は大きく損なわれ即位そのものを経済的理由から断念した天皇もいた。前天皇が崩御すれば「践祚」するのだが、前天皇の大喪の儀と新天皇の即位式は、膨大な資金がかかる。もはや皇室には古式に則った儀式を行う経済力は無かったのだ。信長の父、信秀が御所の筑地塀修復に資金を出したところあたりから天皇家の権威を求める動きが見受けられる。

 後陽成天皇の第3皇子が第3章の主役は政仁(ことひと)親王、以下後水尾天皇という。その生誕の頃は、勇者が戦い続けた戦国時代の終焉を目前にした慶長元年であった。父後陽成天皇は、早く譲位して院政を行いたかった。戦乱の世の中が続き、皇室の権威が失墜した為、長く院政という時代がなかった、いや出来なかったのだ。幼い自分の子である天皇を支えて父が「院政(治天の君)」を行うのは、朝廷権威の象徴だった。しかし、譲位や即位には余りにも莫大な金がかかる。そのような資金力は朝廷単独では到底無理だった。

 後陽成天皇は、しばしば譲位を申し出るものの、徳川家康が許さなかった。後陽成は子への愛情が薄かったのか、なぜか第1皇子も第2皇子も門跡寺院に出してしまった。実は、弟の八条宮智仁(としひと)親王への譲位を考えていた。しかし智仁親王は、以前豊臣家の養子となっていたことがあり、徳川幕府からは承認されるはずはなかった。因みに智仁親王は、その後「桂離宮」を造ったことで有名だ。

 幕府からは、仕方なく第3皇子の後水尾天皇への即位を勧められる。従って、後陽成自らの意志というより幕府の後押しで即位となった。その為、後水尾との親子関係は終生良くなかった。譲位後も、諸道具や書類を引き渡さないなど険悪なムードさえあったという。即位の経緯以外何か理由があるのか、自身の臨終の際にも臨席を許さなかったようだ。

因みに、水尾天皇とは、右京の水尾村に御陵がある平安初期の清和天皇のことだが、清和天皇も本意ではなく、兄の惟喬親王がいながら政治的理由から即位している。当時は、藤原良房の時代でありその権力闘争の結果であったのだ。生前から同じ境遇の水尾の追号を望んだのである。後鳥羽、後醍醐とは、事情は異なるが前天皇の第1皇子から平和裏に即位したものではなかったのは同じだ。違うのは、即位そのものを希望していなかった事だ。以下に詳しく書く。


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