アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

989回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㊹

2023-03-10 08:54:53 | 日記

⑥ 後醍醐の失敗 「王朝時代の終焉」

建武の新政イメージ

遂に後醍醐天皇の「失敗」について書かねばならない。ここでは兵藤裕己氏『後醍醐天皇』(2018年)を参考にする。まず、兵藤氏は時代を俯瞰するならば建武政権は、「王朝の歴史物語の終焉」だと述べている。ここまでは天皇を中心とした公家の権力闘争を軸に、それぞれの派閥に豪族であったり武士集団が離合集散して来た。「薬子の変」から始まった平安時代の戦乱は、しばらく平和な時代を経て、「保元・平治の乱」を境に頻繁に起こる。その後の平家滅亡から承久の変に至る戦乱もすべて王朝内の権力闘争や閨閥闘争が関わって来た。源平合戦も公家の代理戦争が発端だという。雅(みやび)であるはずの王朝物語がしばしば戦乱の原因を作ってしまっていたのだ。しかし、後醍醐天皇の失敗以降は、完全に武士が主役であり「応仁の乱」では、全く皇室の関与はない。

さて、後醍醐天皇の失敗のキーワードは、「無礼講」と「下剋上」である。「無礼講」は、「破仏講」とも言われ仏教の教えを忘れ「宋学」にかぶれた連中の集まりを意味した。儒教とも言われる朱子学思想は、王道にもとづいた皇帝専制的な官僚国家をめざすものである。楠木正成や名和長年のような「在野の士」「草莽の臣」を登用するのはその象徴的なことでもある。在野とか草莽という言葉を聞いていると、幕末勤王の志士を思い浮かべる。建武政権の本当の実現は、明治維新まで待たねばならない。後醍醐の倒幕の真意は、「東夷(鎌倉)に天誅を下す事」だったのである。維新の志士たちの憧れの※児島高徳もこの時代の英雄だった。しかし、彼ら悪党たちはやはり、「怪しき人々」であった。

そして「下剋上」である。破格の昇進を遂げた彼らと天皇を結びつける回路は当時まだ用意されていなかった。また、建武政権の批判で有名な「二条河原落首」を書いたのは相当な知識人だと言われるが、楠木や名和たちが、「キツケヌ冠上ノキヌ」をまとい、「内裏マジハリ」をするさまは、既得権を奪われた公家からすれば憤懣やるかたない気持ちであったろう。「名器は濫りに人に仮さず」とは、官職や位階はみだりに与えるものではなく、あくまでも「先祖経歴」の先例に従うべきとする高級公家たちには、建武政権とは上下の秩序を乱す政治としか見えなかったのだ。その不満分子には、南朝重臣の北畠親房や顕家親子も入っていた。三公(太政大臣・右大臣・左大臣)や摂政・関白を置かない天皇親政は、結果として、三位以上の高級公卿を「国司」という「碑官」に任じるなど、官位のデフレを招いた。落首で「物狂いの沙汰」と言ったのはそのような既得権益を守ろうとした守旧派の発言だろう。結果として、大半の公家、多くの御家人の不満を生んでしまったのだ。

承久の乱の時の、後鳥羽上皇は「倒幕」というより、北条義時一人を成敗しようとしたことは前章で明らかとなったが、後醍醐天皇は幕府のみならず自分以外の既得権をすべて成敗しようとしたのだ。この後、歴史から朝廷が主役になることはなくなる。残念ながら天皇も歴史を牽引する力がなくなる。江戸時代の光格天皇を経て、その真の実現は「明治維新」まで待つしかない。

なお、南朝が正統とされたのは、徳川家康公が足利幕府のあとを受けて徳川幕府を開く時、足利氏を否定する為に源家新田(義貞)流を標ぼうしたからである。さらに、幕末の王政復古の大号令は、関白・摂政など一切おかない君主国家でありまさに「建武政権」の再来であった。その後の皇国史観の中で、「臣民」とか「国体」などの思想を進める為には南朝を正統とする以外に選択枝はなかった。

なお、後醍醐天皇の諡号は、本来なら怨霊を恐れて、崇徳や安徳、顕徳(後鳥羽)・順徳などの徳のつく諡号が贈られるはずだが、ご本人が生前から希望していた為、後醍醐院とされた。遺言は、「玉骨はたとえ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望んと思ふ」(私の身体は南の吉野で白骨になるけど、魂は常に北の京都奪還の執念を持ち続ける。)といった大意である。

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※         鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍したとされる武将。備前国児島郡林村出身。

隠岐に流された天皇の奪還を断念せざるを得なくなった時、傍にあった桜の木へ「天莫空勾践 時非無范蠡」(天は春秋時代の越王・勾践に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう)という漢詩を彫り書き入れ、その意志と共に天皇を勇気付けたという。