アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

992回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㊼

2023-03-15 10:28:44 | 日記

③         紫衣事件  朝幕の力関係は幕府優先が確定した。

 

紫衣事件はナゼ起きた?そもそも紫衣とは?そして後水尾天皇は ...

 さらに後水尾天皇の君主意識を傷つける事件が起こる。「紫衣事件」である。僧侶が身に着ける法衣・袈裟の色に紫を使う事は最高の地位を現わすものだ。古来より朝廷が許可を出す。当然、朝廷の大きな収入源でもあった。ところが、慶長18年(1613年)の「勅許紫衣法度」と慶長20年(1615年)の「禁中並公家諸法度」で、幕府はみだりに朝廷が授けることを禁じた。ところが、後水尾天皇は従来通り十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えていた。そして幕府は、なんと寛永4年(1627年)になって、法度違反だと多くの勅許状を無効にした。当然、幕府の突然の強硬な対応に朝廷は強く反対した。

 この事件の不思議なのは、最初の「法度」から14年、「禁中並公家諸法度」からは12年たってから何故ここで問題となったかである。この間、ずっと有名無実化していた法度であり、紫衣を許された僧侶が複数いる事を幕府も将軍も知っていたのである。ここで活躍するのが、金地院崇伝である。南海坊天海上人と並び江戸初期の幕府の政策全般に関わった政治家であり高僧である。特に「黒衣の宰相」と呼ばれた崇伝は、この年(寛永4年)になり、江戸城で一つの覚書を提出する。その内容はつまり、「元和の法度」(慶長20年改め元和元年)以降の出世(勅許)を尽く無効としたというものであった。浄土宗だけでも29通の綸旨(勅許)が無効とされるもので宗教界はパニック状態に陥る。朝廷のみならず有名な高僧が次々に抗議し、大徳寺の沢庵宗彭和尚や玉室宗珀、江月宗玩が、「抗弁書」を提出した。崇伝は、「甚だもって上意にかなはず」として一蹴した。結果、沢庵、玉室の二人は配流と決まった。因みに崇伝は、この頃京都では、「天下の嫌われ者」と言われた。

沢庵 宗彭(沢庵和尚) | 【大阪の仏壇店】お仏壇の滝本仏光堂沢庵和尚

 さて、後水尾天皇はこのことでどう対応したか。元和以来の多くの綸旨が無効にされ、大徳寺や妙心寺の高僧達が、不届きものとされ衣をはがされ、さらに流罪に処されたのである。言わば、天皇ご自身ののど元に刃を向けられたようなものであった。「主上にとってこの上の御恥はないとの儀」と細川三斎(忠興)は述べている。この事件は、勅許よりも法度、天皇よりも将軍が上であることを天下に知らしめたに等しい。まさに朝幕の力関係は幕府優先が確定したのであった。

 後水尾天皇は、再び譲位を武器に戦いを挑んだ。この時、天皇が詠んだ御製は。

「 思う事 なきだにいとう世中に 哀れ捨てても おかしからぬ身を 」 である。

ここで、重要な事は、中宮徳川和子との間に男子の誕生はあったが、いずれも早世であったことだ。女一宮のみが生育していたので、幕府は譲位を許すと徳川の血統は一代限りになってしまう事である。なんとしても二人の間に健康な男子が誕生することが切望された。

 しかし、後水尾天皇にはもっと差し迫った「事情」があった。


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