アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

465 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第5代 仁明天皇

2018-12-18 13:25:27 | 日記

仁明天皇 第5代 皇統通算54代

「仁明」の画像検索結果

在位 833年~850年

業績(事件) 承和の変 藤原氏の陰謀始まる

父  嵯峨天皇 

別称 深草帝 

死因 病死

御陵 深草陵

宝算 41歳

 

何度も書いてきたが、皇統は親から子に承継される時は平和だが、何かの事情で兄弟継承した場合は、ほとんどが争いの原因となっている。壬申の乱から始まり、薬子の変、当代の承和の変もそうだ。そしてその後歴史上の大乱は多くが兄弟げんかだ。南北朝の争いも、観応の擾乱も典型的なケースだろう。戦国時代には、長兄よりも優秀な者が力で家督を勝ち取った。

 さて、仁明天皇は、嵯峨天皇の子だが、叔父の(嵯峨天皇の弟)淳和天皇から引き継ぐ。そして、その淳和の子が皇太子となっていた。しかし藤原摂関家の良房の陰謀(陰謀とは冤罪を仕組む事・あるいはそうせざるを得ない様に追い込む事)で、承和の変が勃発する。淳和上皇と嵯峨上皇が相次いで崩御した事で、パワーバランスが崩れて良房の危機感から仕掛けたものである。良房に対抗する恒貞皇太子側を排除した事が原因の一つだ。

やはり、藤原氏は調べれば調べるほど好きになれない一族だ。時代はまだ、薬子の変の余韻もあって平和が定着していなく混沌としていた。

年表から登場人物を挙げると、835年空海が亡くなっている。(入寂という)838年小野篁が遣唐使派遣に反対し遠島となっている。841年藤原緒継が「日本後紀」編纂。そして842年、加茂河原の死骸5500余りを焼却したと記されているので飢饉が恒常化していたと思われる。そして父嵯峨上皇がこの年崩御している。

別名深草天皇という。また、日本根子天璽豊聡慧尊という和風の諡号が贈られた最後の例である。


464 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第4代 淳和天皇

2018-12-18 08:08:51 | 日記

平安京 第4代   皇統53代 淳和天皇 一瞬の平和 唐風文化の時代

 「淳和」の画像検索結果

在位 823年~833年

業績(事件) 火葬後散骨(唯一の例)

父  桓武天皇 

別称 西院帝 

死因 不明

御陵 大原野西嶺上陵

宝算 55歳


嵯峨天皇の時代に、平城天皇の皇子高岳親王の皇太子は廃された。従って、当時まだ嵯峨天皇の皇子がいなかったので、後の淳和天皇が皇位を継承した。

淳和天皇は、「大伴親王」という。なお、大伴氏はこれを恐れ多いと「大伴」から「伴氏」に改姓した。従って「承和の変」の首謀者とされた伴健は大伴氏である。(筆者は長く大伴氏と伴氏の関係を知らなかった。)淳和天皇の時代はひと時の平和な時代で、天皇は皇室の財政構築の為、地方の長官に優秀な官吏を多く登用し勘解由の設置を再開し善政に務めた。

謀反人の長兄平城天皇を成敗し、絶大な存在感の次兄嵯峨天皇(いずれも異母)に対するライバル心もあったと推察する。

当時、皇室の結束を固める為であろうか近親相関が普通の時代であった。例えば、淳和皇后正子内親王は兄嵯峨天皇の皇女である。つまり24歳下の姪との結婚だ。また、準皇后の高志内親王は桓武天皇の皇女なので兄妹(勿論母は違う)との婚姻だ。当時はまだ濃い血縁関係が遺伝的問題があるというより、高貴な血統はその一族で繋げて行こうと考えていたようだ。なお、死後大原野西院に葬られた事から、西院帝と申し上げる。本当は、淳和院か西院院というところ院が重複する事から西院と申し上げる。時代は遣唐使が伝える「唐風文化」の時代である。