⑬ 平安京 第13代 通算62代 村上天皇
在位 946年~967年
業績(事件) 天皇親政の時代
父 醍醐天皇
別称 天暦天皇
死因 病死?
御陵 村上陵
宝算 42歳
先々代醍醐天皇同様、摂政を置かなかった事から「延喜・天暦の治」と称され絶賛される。「神皇正統記」(訳本新書版)を見てみると、異例なことに数ページにわたり書いている。まさに絶賛している。中国王朝にも賢王が2代3代と続くのはまれな事で、誇りに思うという事や村上源氏の祖として後世に及ぼした功績についても称賛している。しかし、村上天皇は成人の後即位しているので、あえて摂政を置く理由がなかった為であり実質の政治は藤原実頼・師輔の兄弟が左大臣・右大臣を務め取り仕切っていた。天皇は、華麗な王朝文化を指揮し女官との艶聞が絶えない方であり、記録に残るだけで22名の皇子・皇女を残している。経済的な理由から臣籍降下させて源氏 姓を与えるしかなかったのだ。また、前天皇の時代ではあるが平将門の乱や藤原純友の乱(承平・天慶の乱)、加えて宮廷人の贅沢が原因で財政はひっ迫していた。その為、物価高騰により朝廷への歳入が滞っていた。「古今著聞集」には、率分堂(大蔵に収納すべき官物の倉庫)に草が生えていたと書いている。いかに困窮していたかが分かる。
以上のことを考えると、高級宮人にすれば良い時代だったかも知れないが、「天暦の治」として後世評されるような御代ではなかったと筆者は推察する。
「勅なればいともかしこし鶯の宿はと問はばいかが答へむ」(勅命とあらばたいへんおそれ多いことなのでお断りはできませんが、もしこの紅梅に毎年巣を作るウグイスが帰ってきて我が家はどうなってしまったかと尋ねられたら、さて私はどのように答えたらよいのでしょう)
この歌は、村上天皇が御所の梅の木が枯れた時、無理やり京のはずれのある家の梅の木を御所に移植させた。その見事な梅の木の枝に短冊がかかっていて、そこに書かれていた歌である。「鶯宿梅」として「大鏡」に書かれた有名な逸話だ。作者は紀貫之の娘と伝わるが、庶民の朝廷への複雑な感情を現わしている。聖王ならばこんな皮肉の歌が後世に伝わるはずがないのではないか。