③ 52代 嵯峨天皇
在位 809年~823年
功績(事件) 朝廷の基盤構築・死刑廃止・嵯峨源氏祖
父 桓武天皇
別称 嵯峨天皇
死因 不明
御陵 嵯峨山上陵
宝算 57歳
桓武天皇の第2皇子である嵯峨天皇の即位は、兄の平城天皇の「薬子の変」を抜きには語れない。(前項で述べた。)歴史は当然ながら勝者の記録だ。従って、藤原薬子が勝利していれば奈良の平城への還都となったはずだ。もしかしたら歴史上、「古の都奈良を脱出して山城に遷都を企てた桓武上皇の暴挙を平城上皇が阻止した。」と、語られる事になったかも知れない。まだまだ平安京が永続的な帝都と認知される前の事なのだ。
まず、嵯峨天皇は、皇室の安定的継承と発展の為、繁殖にいそしんだ。子の仁明天皇以外皇子はほぼ全員源氏を名乗ることになる。ネットで調べると、名のある皇子の誕生を調べると、嵯峨天皇は21歳から43歳まで間断なく子をなしている。名のあるお相手の女性だけでも32名である。57歳で崩御するまでご努力された。
一方、「神皇正統記」(北畠親房作・松村武夫訳)を見ると、嵯峨天皇の欄はそのほとんどが空海と最澄の功績を伝えている。嵯峨天皇については、幼少の頃から聡明であった事、読書を好み諸芸を学ばれた事を書き絶賛している。さらに特に深く仏教を崇拝されたことを書いたあと、伝教大師・弘法大師が唐から伝えた天台宗・真言宗の両宗派がこの御代から広まったという事と、その二人の大師はただ人ではない(ただものではない)ことを詳細に記載している。さらに奈良東大寺・興福寺の華厳宗や法相宗についても詳しく書き、その後広まった律宗・禅宗についても経緯を書いている。その上で、宗教や宗派は人それぞれの信じるものを信仰するべきであり、違う宗派を批判すべきではないとしている。おそらく比叡山の寺門派と山門派の争いや、奈良興福寺と京都の諸寺とのもめごとに終始している状況を憂いて書いたものと思われる。言うまでもなく神皇正統記は、南北朝時代に南朝の正当性と天皇の資質やあるべき姿を滔々と北畠親房が書いたものであるが、この嵯峨天皇の段では長々と天皇と宗教について書いている。宗派の伝来の様子や経緯については極めて誤りが多いと謙遜しながらも、どの宗派も捨てずに信じる事が国家の災いを除くには大事な事だと強調している。仏教に限らず儒教や道教のような人道を説くものも重要だと言いそれぞれを取り立てて用いるのが聖代(理想の天皇)と言うべきと結論付けている。嵯峨天皇の項目なのだが、明らかに書いた当時の後醍醐天皇(建武の親政)の御代を称えている。さらに、天の王が民を導くには諸芸・諸道みな欠く事が出来ないものであると言っている。詩・書・礼の三道に加えて算道も必要な資質と説いている。そして、主題の嵯峨天皇については、顕教・密教の両方に帰依深く、儒教も究明し文章も巧みであったと書き、書道にも優れ宮城の門の額は自らお書きになったと書いている。実際、空海・橘逸成と並び「三筆」の一人となっている。三蹟(小野東風・佐理・行成)など含めても書で称えられるのは天皇では嵯峨天皇一人である。
その様に、神皇正統記では嵯峨天皇を称えながら実は、後醍醐天皇と南朝の徳について強調することで、北朝の徳の無さや当時の宗教界への痛烈な批判を長々と書いているのだ。初代神武からここまで歴代天皇の功績を書いていたが、ここで本当に書きたいことを一気に書いたという事だ。親房の面目躍如たる項目になっている。
さて、嵯峨天皇の時代は、平安時代の名前通り長い平安の始まりだったと思う。薬子の変で藤原仲成以下を処刑して以来、死刑を禁じた事で、以降数々の政変が発生するが、ほとんど「島流し」(遠島)で決着している。因みに、死刑が復活するのは、保元の乱である事も前項で書いた。
この嵯峨天皇の時代に活躍した英雄を二人紹介する。まずは、坂上田村麻呂。歴史上最初の征夷大将軍である。任命したのは桓武天皇の時代だが、武家の最高の称号になるこの呼称は、本来中央の朝廷になびかない蝦夷の征伐に任命された武官の最高の地位であった。今で言う東北地方の征伐は当時大きな政治的課題であった。現在の福島・岩手方面を支配していた蝦夷の頭目の阿弖流為(アテルイ)を降伏させて都に連れて来た記録が平安初期の年表に書かれている。即刻処刑と記録されているが、田村麻呂は命は必ず助けるという約束で降伏を許したのだ。しかし都の公家たちはその異相なる姿に恐れおののき助命を許さなかった。田村麻呂の苦悩がうかがえる。「この度は願いに任せて返入せしめ、其の賊類を招かん」と言う田村麻呂に、「野生獣心にして、反復定まりなし。たまたま朝威に縁りてこの梟帥を獲たり。もし申請に依り、奥地に放還すれば、いわゆる虎を養いて患いを残すなり」と公卿たちは応えたという。また、あまり知られていないが、田村麻呂は清水寺の開山者である。妊娠した妻に鹿の生き血を飲まそうと音羽山に入った田村麻呂は鹿を射殺した。見るとメス鹿でしかも子を宿していた。悔やんだ田村麻呂は、修行中の僧延鎮に勧められその地にお堂を立てた。延暦24年(805年)には寺地を賜り、嵯峨天皇宸筆の勅許を得て寺印一面を賜って公認の寺院となっている。「北観音寺」の寺号を賜ったとされるが、奈良興福寺(法相宗)の末寺の扱いであった。北法相宗として独立本山となるのは、なんと昭和の時代の大西良慶和尚の時に至ってのことである。その大西良慶氏は「中興の祖」となっている。現在の清水寺開山堂は田村堂とも呼ばれ、田村麻呂夫妻と延鎮の像が安置されている。また、中興堂には大西良慶氏が祀られている。
因みに音羽の滝下には、阿弖流為の石碑が建てられてる。田村麻呂と阿弖流為の悲劇と友情を忖度して岩手県人会が建てた。因みに田村麻呂は現在も音羽山奥の将軍塚に御所の方向に向いて都の平和を見張っている。「西野山古墳」という。
子子子子子子子子子子子子
御存じのこの言葉遊びは、「ねこのここねこ、ししのここじし(猫の子子猫、獅子の子子獅子)」と読む。この問題を考え出したのは嵯峨天皇、解いたのは小野篁であると伝えられている。
これは、「無悪善」と書いた立て札が内裏に立てられた時、嵯峨天皇が篁に読み方を尋ねたところ「さが(悪)なくてよからん(嵯峨天皇がいなければよいのに)」と読んだ。書いた犯人は篁自身と思った天皇は、自分は何でも読めるのだと弁明する篁にこれを示したという。しかし篁が即意味通り読んだため、天皇の怒りが解けたと伝わる。どこまで本当か。