⑥ 平安京 第6代 皇統通算 55代 文徳天皇
在位 850年~858年
業績(事件) 良房が太政大臣になる
父 仁明天皇
別称 田邑帝
死因 病死
御陵 田邑陵
宝算 32歳
文徳天皇の時代は、先帝仁明天皇時代の「承和の変」という藤原氏他氏排斥事件から説明が要る。まず、薬子の変で敗れた平城上皇の皇子阿保親王が、「嵯峨天皇の皇后橘嘉智子に、伴健岑と橘逸勢とが謀反を企てている。」と、密告した。嘉智子は子の仁明天皇とそのお后の兄である藤原良房にすぐ報告した。まだ中納言に過ぎない良房が事態を収拾するところが不思議だが、「謀反人二人に担がれた。」とされて当時の皇太子恒貞親王(淳和天皇の子)の廃太子とその側近藤原愛発など藤原北家でも傍流の者の左遷が断行された。主犯の二人は流罪となり、その後良房は大納言に昇進している。因みに橘逸勢は流刑の途中死亡し怨霊となる。加えて藤原式家の重鎮もほとんど左遷された。
そして、今回の主役、後の文徳天皇が、新たに立太子する。嘉智子・良房・仁明天皇の三者の利害が一致し新皇太子のお相手に良房の娘で15歳の明子(あきらけいこ)も決定していた。
このように藤原摂関家(特に北家)の思惑の中で、嵯峨天皇の系統に皇統を定める為の陰謀であった。(天皇など御本人には何の意志もない。)神皇正統記にもさしたる功績も文化的業績も書いていない。さらに文徳天皇ご自身の皇太子を決める際にも、藤原氏の思惑が働く。文徳天皇は第1皇子の惟喬親王を後継にしたかったが、第3皇子の後の嵯峨天皇を良房は自らの血筋(明子の子)である事から強引に決めてしまった。
伊勢物語で有名な悲運の惟喬親王は在原業平との親交が深く、文化的素養があり人柄もよく真言宗高雄山寺の高僧達も応援するなど、人気があった。その為、後の嵯峨天皇立太子にあたり良房は反対勢力を警戒し兵を動員するなど相当警戒したという。文徳天皇は、32歳で崩御するが在位中天然痘が流行し多数死者が出た。天皇は、庶民に施しをするなど徳ある施策に務めたと伝わる。生涯病弱と記録されているが、皇統の安定の為、皇子・皇女は少なくとも31人以上残している。良房の暗殺説もあるが早死の原因は、無理をした結果の多淫が原因とも言われる。