平安京 第4代 皇統53代 淳和天皇 一瞬の平和 唐風文化の時代
在位 823年~833年
業績(事件) 火葬後散骨(唯一の例)
父 桓武天皇
別称 西院帝
死因 不明
御陵 大原野西嶺上陵
宝算 55歳
嵯峨天皇の時代に、平城天皇の皇子高岳親王の皇太子は廃された。従って、当時まだ嵯峨天皇の皇子がいなかったので、後の淳和天皇が皇位を継承した。
淳和天皇は、「大伴親王」という。なお、大伴氏はこれを恐れ多いと「大伴」から「伴氏」に改姓した。従って「承和の変」の首謀者とされた伴健岑は大伴氏である。(筆者は長く大伴氏と伴氏の関係を知らなかった。)淳和天皇の時代はひと時の平和な時代で、天皇は皇室の財政構築の為、地方の長官に優秀な官吏を多く登用し勘解由の設置を再開し善政に務めた。
謀反人の長兄平城天皇を成敗し、絶大な存在感の次兄嵯峨天皇(いずれも異母)に対するライバル心もあったと推察する。
当時、皇室の結束を固める為であろうか近親相関が普通の時代であった。例えば、淳和皇后正子内親王は兄嵯峨天皇の皇女である。つまり24歳下の姪との結婚だ。また、準皇后の高志内親王は桓武天皇の皇女なので兄妹(勿論母は違う)との婚姻だ。当時はまだ濃い血縁関係が遺伝的問題があるというより、高貴な血統はその一族で繋げて行こうと考えていたようだ。なお、死後大原野西院に葬られた事から、西院帝と申し上げる。本当は、淳和院か西院院というところ院が重複する事から西院と申し上げる。時代は遣唐使が伝える「唐風文化」の時代である。
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