さて今回の美濃路散策では、もう一つ興味あるものに出会いました。
庄内川の土手に鎮座せられるごく小さなお社で、中島黒體龍王大神社と言うようですが、こんな立て書きがありました。
この辺り地名を枇杷島と言うように、昔は海や川の入り組んだところに島が浮かぶ地形だったようです。
藤原師長は船でここから都へ旅立ったのでしょうか。
先の娘は師長を追い、この地で身投げをしたというのもよく理解できる地形です。
このお社が鎮座する土手を作る庄内川は、海が後退して周りが陸地になった後、度々洪水を引き起こしていたのでしょう。
このお社はもともとはこの対岸との中間にあった中州で中島と言われるところにあったのが、
昭和になって川の流れを拡くすべく中州を取り崩した時に今の地に移されたとありますが、
もともとは度々氾濫を起こす龍神の祟りを収めるべく、このようなお社が作られ鎮座させられていたのでしょうか。
また江戸時代からここに架けられていた枇杷島橋や、そのそのたもとで栄えた市場も今は昔。
そんな時代の流れも全て懐中のものとし、庄内川は今もとうとうと流れています。
ところで私がこのお社に興味を持ったのは、このお社境内(とはいっても極く狭い敷地ですが)の中に安置せられているお地蔵さんの両脇に置かれていた一対の青磁です。
見たところ全体のバランスもよく、お地蔵さんの脇仏のように堂々と鎮座していると言う風情です。
釉もどっぷりとかかり、大変立派なものに見えます。
足元高台の一番ふもとにはわずかですが赤い粘土が見えます。
中国の龍泉窯風の趣ですが、日本のどこかの窯のものかもしれません。
鉄釉で大きく卍が書かれており、その上から釉をかけて焼いているようです。
卍が入っていると言うことは、もともとお寺や神社で使うために焼かれたものでしょう。
一対両者とも卍が入り他の形態も同じですので、もともとこのお地蔵さんをお守りしてお祀りするために焼かせたものでしょうか。
いずれにしろ左右とも耳が一部欠けてはいますが、不遊環はしっかり残っており、なかなかいい風情のものと見ました。
こんな青磁に守られているお地蔵さんの由来を知りたいものです。
庄内川の土手に鎮座せられるごく小さなお社で、中島黒體龍王大神社と言うようですが、こんな立て書きがありました。
この辺り地名を枇杷島と言うように、昔は海や川の入り組んだところに島が浮かぶ地形だったようです。
藤原師長は船でここから都へ旅立ったのでしょうか。
先の娘は師長を追い、この地で身投げをしたというのもよく理解できる地形です。
このお社が鎮座する土手を作る庄内川は、海が後退して周りが陸地になった後、度々洪水を引き起こしていたのでしょう。
このお社はもともとはこの対岸との中間にあった中州で中島と言われるところにあったのが、
昭和になって川の流れを拡くすべく中州を取り崩した時に今の地に移されたとありますが、
もともとは度々氾濫を起こす龍神の祟りを収めるべく、このようなお社が作られ鎮座させられていたのでしょうか。
また江戸時代からここに架けられていた枇杷島橋や、そのそのたもとで栄えた市場も今は昔。
そんな時代の流れも全て懐中のものとし、庄内川は今もとうとうと流れています。
ところで私がこのお社に興味を持ったのは、このお社境内(とはいっても極く狭い敷地ですが)の中に安置せられているお地蔵さんの両脇に置かれていた一対の青磁です。
見たところ全体のバランスもよく、お地蔵さんの脇仏のように堂々と鎮座していると言う風情です。
釉もどっぷりとかかり、大変立派なものに見えます。
足元高台の一番ふもとにはわずかですが赤い粘土が見えます。
中国の龍泉窯風の趣ですが、日本のどこかの窯のものかもしれません。
鉄釉で大きく卍が書かれており、その上から釉をかけて焼いているようです。
卍が入っていると言うことは、もともとお寺や神社で使うために焼かれたものでしょう。
一対両者とも卍が入り他の形態も同じですので、もともとこのお地蔵さんをお守りしてお祀りするために焼かせたものでしょうか。
いずれにしろ左右とも耳が一部欠けてはいますが、不遊環はしっかり残っており、なかなかいい風情のものと見ました。
こんな青磁に守られているお地蔵さんの由来を知りたいものです。