コンピュータのデジタル環境で作られたものであっても、モノとして出現するときにはアナログとして存在し始めなければならない。佐立さんがトライしているように、コンピューターソフトで作られたものでも、出力時点では紙や布といったアナログ素材を抜きにしては存在できないからである。故に「純粋デジタル」というのがあるとしたら、我々の脳内にしかあり得ないし、それは純粋には取り出し得ないし、我々が五感で触れて見れるものは「デジタル的なもの」でしかない。
だから問題があるとしたら、目の前の驚くべき現実を忌避して、別の現実(バーチャルリアリティ)を創り出せると思っている、本質的にイデオロギーの発生装置である脳に実装された宿命的な指向性の問題なのであろう。しかも、そのような「脳化」の方向は、世の権力を後ろ盾としている。そういう指向性の強い人たちが常に世を支配し、ときには教育というかたちで政治や経済や文化の仕組みを強化し、世の中はそうしたものによって発達し進歩し、良い方向へ歩んで来たように思わせているから厄介なことだ。マトリックスに出て来るような脳内幻想だけで成立する逆ユートピアへと我々は歩んでいかざる得ないのだろうか。
見て触れることができる自然の物質にこだわって、その美とパワーに後押しされて作品を作り続けている佐竹さんは、この脳化社会の逆ベクトルを遡行する歩みをしているかのようだ。この展示会では、「デジタルと感覚」というタイトルから想像されるようなデジタル的な作品が展示されているわけではなかった。佐立さんがデジタルとは何かと思考したあとが、たくさんのプリントや文字によって示されているだけで、展示されている作品とはほとんどつながりを持たない。だから、ここにあるのは「デジタル的なもの」がテレビやインターネットや、ビデオなど映像文化を通して日常に浸透している現代社会に対する、彼女の強い問題意識であろう。農業体験をベースにした子ども教室の主催者であり、母親でもある作家が、余計にそうした社会状況に敏感であらざる得ないのはわかる気がする。
佐立さんの作品は、脳化の先進国である欧米渡りのフレームの中では、抽象画のカテゴリーに入るのだろうが、それは形態や色彩を頭の中で煮詰めて、人工的な材料で造形するという作業から生み出されたものではない。今回の作品では炭と蝋が用いられている。これまでの作品でもそうだが、彼女の作品においては「自然の中で見い出した」素材が素材以上の大きな存在感を持っている。この素材を見出した時点で、もう作品の出来不出来は半ば以上決定されていると言ってもいい。素材の選択と仕込みを重視する料理人のようなものだ。優れた料理人がそうであるように、佐立さんは自然に実在するモノが発する磁力を五感でキャッチし、その素材の力を生かして美味しい料理ならざる美しい作品を作りだす力に優れている。
佐立さんのそうした力は、自然の中で作物を愛情を持って育てていく、淡々とした労働の日々の中で(彼女は美術大学ではなく農業大学を出ている)育てられて来たもので、料理人がそうであるように、天性のセンス、自然にポエジーを感じる力を背景にしている。今回のメインの作品を見ていると、柔らかい日差しを受けて所々に黒土がのぞく雪道を長靴でさくさく歩いているような感触とともに、人工的な都市環境の中ではすでに感じられなくなった春を迎える喜びが鮮明に蘇って来る。
だから問題があるとしたら、目の前の驚くべき現実を忌避して、別の現実(バーチャルリアリティ)を創り出せると思っている、本質的にイデオロギーの発生装置である脳に実装された宿命的な指向性の問題なのであろう。しかも、そのような「脳化」の方向は、世の権力を後ろ盾としている。そういう指向性の強い人たちが常に世を支配し、ときには教育というかたちで政治や経済や文化の仕組みを強化し、世の中はそうしたものによって発達し進歩し、良い方向へ歩んで来たように思わせているから厄介なことだ。マトリックスに出て来るような脳内幻想だけで成立する逆ユートピアへと我々は歩んでいかざる得ないのだろうか。
見て触れることができる自然の物質にこだわって、その美とパワーに後押しされて作品を作り続けている佐竹さんは、この脳化社会の逆ベクトルを遡行する歩みをしているかのようだ。この展示会では、「デジタルと感覚」というタイトルから想像されるようなデジタル的な作品が展示されているわけではなかった。佐立さんがデジタルとは何かと思考したあとが、たくさんのプリントや文字によって示されているだけで、展示されている作品とはほとんどつながりを持たない。だから、ここにあるのは「デジタル的なもの」がテレビやインターネットや、ビデオなど映像文化を通して日常に浸透している現代社会に対する、彼女の強い問題意識であろう。農業体験をベースにした子ども教室の主催者であり、母親でもある作家が、余計にそうした社会状況に敏感であらざる得ないのはわかる気がする。
佐立さんの作品は、脳化の先進国である欧米渡りのフレームの中では、抽象画のカテゴリーに入るのだろうが、それは形態や色彩を頭の中で煮詰めて、人工的な材料で造形するという作業から生み出されたものではない。今回の作品では炭と蝋が用いられている。これまでの作品でもそうだが、彼女の作品においては「自然の中で見い出した」素材が素材以上の大きな存在感を持っている。この素材を見出した時点で、もう作品の出来不出来は半ば以上決定されていると言ってもいい。素材の選択と仕込みを重視する料理人のようなものだ。優れた料理人がそうであるように、佐立さんは自然に実在するモノが発する磁力を五感でキャッチし、その素材の力を生かして美味しい料理ならざる美しい作品を作りだす力に優れている。
佐立さんのそうした力は、自然の中で作物を愛情を持って育てていく、淡々とした労働の日々の中で(彼女は美術大学ではなく農業大学を出ている)育てられて来たもので、料理人がそうであるように、天性のセンス、自然にポエジーを感じる力を背景にしている。今回のメインの作品を見ていると、柔らかい日差しを受けて所々に黒土がのぞく雪道を長靴でさくさく歩いているような感触とともに、人工的な都市環境の中ではすでに感じられなくなった春を迎える喜びが鮮明に蘇って来る。