この二人のコンビでの展示は、今年で何回目になるだろうか。野中さんの展示はもっと長く10年以上になると思う。野中さんの展示を続けているのは、一人の作家の具体的な作品を通して、「抽象とは何か」ということを、今まで観念的に展開されてきた知識や既成の理論の受け売りに基づかず、自分で感じ考え続けて行くためである。言葉を変えれば、画家にはある必然性を持ってなされている行為の意味を画家ではない私が知りたいという願望に基づく。その自分の側の勝手な要求に、野中さんは作品を持って応答してくださる力量を十分にお持ちの作家であった。自分自身の覚書の意味もあって、以下にこれまでの自分が関わった展示に際してのコメントをまとめてみた。
まずは身近に迫った展示会の案内から
●野中光正&村山耕二展 2019.9.20~28
確かに確かにモノと心がぶつかり合い、 作家の手が動いた至福の瞬間があった。 いま、見る者を、魂に映った命の鳴動と 音楽的運動の出来事、美の世界へ誘う。『ミックストメディア(木版)』と『ガラス作品』の 絶妙なコラボレーションを再び。
●野中光正展 2019.2.1〜10 ギャラリーアビアント 墨田区吾妻橋1-23-30-101
1971年、当時西新宿に超高層ビル群を次々出現させつつあった、急激な社会変化の波は、戦後の強烈な生活の匂いが漂よう下町の風景をも、かろうじて余命を保っていた江戸の面影もろともに、一気に消し去ろうとしていた。
同じ頃、野中が描いた東京下町の姿は、まるで幻の生き物のようで、建物は喘ぎ揺らいで見える。ためらいのない筆の運びで、大胆に省略が施された風景描写は、一瞬の若い魂のエッセンスと陰影を映しつつ、誰もが逃れ得ない無常の真実を浮き上がらせている。
これらの風景が、包装紙やレコードの宣伝帯、薬の袋、書店の注文票など、生活の中で出会う雑紙の切れっ端に描かれているのに驚きつつ、一層の興味を引かれる。現場にそれら多様な肌合い、色合いの紙を持参して、その場で風景にふさわしい材料を選んで描く。その独特な手法に心に働きかけてくるものに即応しようとする純粋な意志を感じる。スケッチブックを用いることが、構えて「絵」を作り上げてしまう小賢しさにつながる。そのことを強く厭う気持ちがあったのだろう。
後年、写実を離れ、画室において独自の「抽象」を描くようになっても、この製作流儀は根本的に変わらない。「絵を描くことに具象も抽象もない」という日頃の彼の言葉に、改めて得心が行った。
以上は来年1月発刊を予定されている野中光正の若き日の東京下町の風景素描集に寄せた序文である。
関連して時代はもう少し後になるが、1974年の自分自身の記憶を記しておこう。この年の夏、わたしは東京を去ることになり、何か用事があってのことなのか今や判然としないのだが、久しぶりに新宿の西口に降り立った。そこで見たものはかつての風景ではなかった。空を映して広がっているはずののどかな浄水場(淀橋浄水場)の風景は跡形もなく消え去り、広い道路とそそり立つ高層ビル群の重なりがかつての風景をいっぺんさせていた。そこには今も加速される一方の近未来的な風景が出現していたのだ。政治と情念の季節を葬り去った、そのあけっら感として明る過ぎる風景の前で、浦島太郎のように唖然とするばかりの自分がいたことを今も思い出す。
●野中光正&村山耕二展 生成と変容 2018.9/21〜26 東北工業大学ロビー
少しでも多くの方に見てもらいたい、との思いで、今回は皆さんにも立ち寄りやすい一番町の東北工業大学ギャラリーで以下展示を企画いたしました。野中さんについては人物と画家としての生き方も含めて惚れ込んで10年近く毎年のように展示会を開いています。少しでも流行や西洋の借り物ではない彼独自の抽象を理解し評価してくれる人が増えてほしいと願っています。村山さんとも付き合いが長いですが、そのオリジナルを作り出す勇気とユニークな才能にはいつも感服させられています。
1970年、20歳前後、野中は東京下町の風景を憑かれたように描いた時期があった。この今なお見る者に迫ってくるリアリティの質は、30歳前後から手がける版画の技法を駆使した「抽象」(ミクストメディア)においても変わらない。野中が自分にとって「具象」と「抽象」の区別はない、と言うこととも繋がるところだ。野中の「抽象」とは、絵画史の紋切型と化した1ジャンルではなく、心と魂の旋律を純粋状態で記述するための、彼なりのぎりぎりの本質還元への手法なのだ。顔料、ブラシ、馬連、定規、布、版木、そして門出和紙。最良の音楽家が楽器を綿密に吟味、調整するに似て、これら道具は身体に馴染むものとして、ときには自作される。何十年も日々淡々と制作を続けてきた。そのうちに、意識的営為を超え、手が滑らかに動き出し、作品が自ずから生まれていく「生成」の奇跡にも遭遇する。制作日だけを記す彼の作品は、作品がついには「名づけ得ぬもの」としてしか成立し難い、こういう事情を物語っている。
地球内部で起こっている生成と衰滅。その見えざるメタモルフォーゼを可視化する作業。砂に命を吹き込むガラス作家村山の営為は魅惑的な色とかたちの日用の器を生み出してきたが、一方で彼のうちには、太古に錬金術師が抱いた夢を思わせるより原理的な志向があった。それが炉から取り出したばかりの溶けたガラスに石を入れるという無謀な試みをも唐突に誘発させたのだろう。石は彼の手の内で爆発の危険を帯びながらも、水を注ぎ入れた瞬間、まるで生命ある物質であるかのように変容を開始したのである。それは彼にしか分からない驚きの瞬間であった。錬金術には2つの方向がある。1つは世界を追創造し、至高の価値「黄金」を作ろうとする道、自然科学の先行者となった道である。そしてもう1つは究極の奇跡「賢者の石」を極める道、人間自身の変身と変容の道である。この2つは芸術と言われる営為の本質を言い当ててはいないか。彼のうちにこの2つの芽がどのように内包され、花開いていくかこれからも注目して行きたい。
●野中光正&村山耕二展 2018.6/14〜23 杜の未来舎ぎゃらりい
創るもの、生まれるもの。このふたつがうまくミックスされ、バランスされたところに作品が生まれる。創り込みすぎてもだめ、生まれたままでもだめ。作品として成り立つには、分かたれないひとつのもの=美として成立していなければならない。このふたつを絶妙にバランスさせるものは何か。神というか、自然というか、それは人間の知恵においては、永遠の謎なのだが、作家のモチベーションの大元にあるのものに違いない。個性も年齢も出自もすべてが違うふたりが年に一度の展示会で出会い続けられるとしたら、この共通点においてだと思っている。
村山の作品は、日本からモロッコまで、世界を巡る幅広い行動力から生まれてきている。無辺の大地から抽出されたエキスが感界で捉えられ、美とつながる野生の思考に育まれ、手の内でいのちあるかたちとなって吹き出している姿を見る感動。もちろんこの錬金的変容は稀有な個性のうちだけでは生まれない。真っ先に砂や炎や光や自然の計り知れない力、そして同じ魂を持って器を日常に引き入れてくれる人々、このふたつの強力な坩堝を持つ作家の幸せ。
野中の立体作品には、地方人には真似のできない、東京下町浅草の生活に根づいた昭和モダニズムと、彼の中核にある部分、戦時中、中島飛行機の部品を作る町工場主であったという、父のDNAを受け継ぐ堅固な職人魂が見て取れる。綿密に構築する美的設計がないと、彼の「零戦」は飛翔しない。一方、従来の平面作品(木版画モノタイプ・ミックストメディア)が繊細な調和を見せるのは、それが音楽のように軽やかに優雅に舞い降りた瞬間であったのだろう。このふたつの美を成り立たせる複合的な人格の不思議さ。
●野中光正・村山耕二展 2017.4/22~30 ギャラリー絵屋 この作品展は6/5〜18杜の未来舎ぎゃらりいでも開催
新潟の町屋を再生した趣あるギャラリー「絵屋」での「野中光正・村山耕二展」。3年前初めて2人の展示会を「絵屋」代表の大倉宏さんに持ちかけた経緯もあって、私もラスト2日間会場に赴いた。今回も2人の作品が出会って心地よい協和音を奏でていた。
絵(木版を用いた混合技法)とガラスとジャンルは違うが、2人には似通った点がある。野中は、自らの創作に毎日午前中の同じ時間に始めその日のうちに終えるリズムを課している。それは日記を書くのと同じようなものだから、タイトル代わりにそっけなく日付が入っているのみだ。一方の村山の創作は、野中と違って物理的な制約に基づくものだが、炉から取り出した高熱で溶けたガラスが固まるまでの時間に限られている。
2人とも油絵や陶芸のようにかたちや色をいつまでも持て遊ぶことを避けた、あるいはできない中で創作を続けている。それは彼らの執着しない、まっすぐな性格にもあっているのだろう。そんな中でどこで手が止まるかは創作のもっとも深い秘密に属することであろう。2人とも頭で考え思いを膨らましながらではなく、手が勝手に動いてかたちができていく時があって、そういう時が気持ち良く自分が好きな作品ができていく時だと語っている。雑念を去って素の心が働く瞬間とでも言ったらよいのだろうか。
そういうとき、野中の作品であれば、もう一筆も加えられない感じで絵は絶妙なバランスで止まっているし、村山の作品であればこれ以上かたちを変えると崩れてしまいそうな繊細を極めたぎりぎりのところでかたちが止まっているように見える。止まっているというのは、そこで終わっている、ちんまりまとまっているということではない。それは次の瞬間には動き出すように生きているように止まっているのである。
そこはこの世界の向こうの美の領域の瀬戸際でもあるのだろうか。創り続けることに究極のモチベーションがあるとしたら、ヤコブの梯子のように突然降りてきた美(あるいは永遠)への階梯が垣間見られるこのめったにない瞬間を体験すること以外にはないように思う。天性の才能に加えて、当然この瞬間を呼び込むためには長い間の単調な技術的な修練も必要とされるのだろう。才能や修練の度合いでは到底及び難い単なる鑑賞者も、作品をただ見るだけで、この瞬間を盗み見ることできるとしたらなんとも幸いなことだ。
●日々の邂逅 野中光正新作展 2016.5/31~6/12
例年初夏に開催している野中光正新作展(5月31日~6月12日、10・11・12画家在廊)のポストカードのコピーを書いた。心で受け止める色とかたちとテクスチャーの世界。頭から入らずに抽象を音楽のように楽しむ人がもっと増えてほしい。
日々の邂逅
使い込んだ道具類や顔料が整然と置かれた野中氏のアトリエはラボラトリーのようだ。東京、元浅草、ビルの谷間から漏れる淡い自然光をたよりに、朝のいつもの時間、画家は支持体の和紙に対面し、毎日一枚のペースで作品を仕あげていく。永遠のようでありながら、確実に終局に向かう時間の中、その時々の感情の波立ちが微妙な色調や形の差異となる。しかし、時々向こうからやってくる何かが、自己を超えたところで奇跡のように働き、画家の手を通して、自然な美の痕跡を残す。 心地よい音楽を聴いた時に与えられる、偶さかの静かな幸福な時を見る人と共有したい。
●野中光正展 2016.2/3~12 (ギャラリーアビアント)から野中語録
野中光正さんは、浅草の画家であり版画家であり、毎年展示会をお願いしている作家さんだが、実は色彩とかたちで音楽を演奏されている方と言った方が良い気がする。すばらしい音楽を演奏するために、彼は持って生まれた才能はさることながら(20歳の時描いた風景スケッチを見ただけで、ずば抜けた才能の片鱗が見えてこの人は特別な人だなと思う)、40年以上の長い間、日々日記のように欠かさず作品を描いて、一人で何種類もの楽器(筆、色、和紙、キャンバス、版木、馬楝など)を感性が導くままに自在にこなせるまでに技量を磨いてきた。その総決算として、最近の作品には誰にも真似のできないようなすばらしいオーケストレーション(主としてクラシックの)の響きが聞かれる。
自分に与えられているものに正直な方でその自然なまっすぐさが作品にも出ている。これは受けそうだから、流行りだろうから、取り入れてやろうなんて小賢しくいやらしい計算が微塵もない。もっともそんなことをしたら、すぐ演奏に出てしまい人を感動させるようないい音楽は奏でられない。これが人の魂を表現の核に置いた抽象というジャンルの正直なところだ。
ときどきハガキをお送りいただけるがそこに書かれた言葉にはいつも心動かされる。最近届いた本所吾妻橋のギャラリーアビアントでの展覧会の案内状。そこにも作品(1980年代の旧作。線のいろんなタッチがあって面白い。上方の山のように見えるのは意図してやったわけではないが、マックスエルンストのフロッタージュのようになりましたとは本人の弁)とともに自筆の言葉が添えられていた。「描くことが生きること」である画家の言葉を、味わいのある文字といっしょに紹介したい。
●野中光正&村山耕二2人展 2015.2/5~15 新潟絵屋
木版画もガラスも外部との、それは「版木」であったり「火」であったりするが、そうした手強い物質との闘いが制作の大きな要となる。和紙に押し付けた版木は、あるいは、炉から取り出されたガラスは後戻りできない。一瞬にして魂を作品に宿らせる。
ガラス作家の村山さんは、制作に先立ち構想をスケッチしたりしない。ぶっつけで溶けたガラスをかたちにしていく。木版画家の野中さんもほとんどの作品を下絵なしで創る。いずれも生き生きとした命の流れを写すライブ・パフォーマンスなのだ。だが、これがなかなか難しい。長い間の技術的修練だけでは、心の嫌なものが出てしまうのを防ぎようがない。自然のエッセンスをつかみ、美へと昇華させることができるとしたら、天与のセンスとナイーブさをおいて他にない。かつて「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と評されたボクサーがいたが、力技をエレガントに、豪快に繊細に見せることができる点で、2人のコラボはいつも心地よく響きあうものがある。
●木版画家野中光正さんのこと 2012.4~6
浅草在住の版画家野中光正さんが電話で唐突に「モランディはやはりいいですね」という。確か2年前仙台に来られたとき、大分前東京銀座のでデパートで偶然モランディ(Giorgio Morandi, 1890年 - 1964年)の絵に出会って、しばらくその場を動けなかったという話をしたと思う。その時から大分時が過ぎていたから、彼からモランディの名前が出て来るとは全く思いもよらなかった。しばらくして4月末の展示会用に新作の版画が送られて来た。野中さん手づくりの木製の送り箱を開けると、モランディに近しい穏やかな色彩の作品が出て来た。彼の中ではモランディは長い間静かに発酵を続けていたのだろう。そのことがとてもうれしい。
野中さんは木版画という江戸以来のメディアで、モランディのように色彩と形の探求を40年近く続けて来た。毎日のように作られた版画のタイトルは製作年月の数字を羅列したものだ。この文学性を交えない素っ気なさは内なる魂と外なる自然の出会いの出来事を日々描き止めているアノニマスな記録者という感じがする。「絵をつくるとは人や人を含む自然を思うことであり、又思われることを期待する心の現れである」とは彼の言葉だが、自然を反映しながら移ろい行く命の流れの中にいる自己に何より正直で、鍛えられた手技はそれを紙面に定着するためにもっぱら用いられている。修練を重ねれば重ねるほど企みや嘘が磨かれるのか、一般には受けのよい饒舌な表現となって魂が減失していくのは凡庸な証拠だが、それがないのを天賦の才といわずして何と言おう。
20代に描き続けた東京下町の木炭デッサンにも、30になってから始めた版画に見られる純粋な一貫性が見て取れる。かって高度成長を支えた下町の風景がそこにはあって、光や空気、臭いまでがモノクロームの画面から立ち上って来るようだ。一見心を鷲掴みにするピカソのデッサンのように、描かれた線は風景のいのちをひと掴みし、画家の魂を滲ませている。何処に行くのか、すべての風景は命を持って悲しく美しくゆらいでいる。「日々を慰安が吹き荒れて 帰ってゆける場所がない」。(吉野弘)宿なしのように東京の雑踏をさまよっていた若い時を思い出す。
やがて風景デッサンは極度に省略され解体されて、キュービズムばりの試みへと移っていく。これを見ると彼は突然抽象を描き始めたのではないことが分かる。モンドリアンの百合の花の連作のように、必然の流れは写実を徐々に抽象へと導いてゆく。めざすのは自然と魂が分離しがたく結びついた世界。木版画は、ねちねちとこねまわすことが宿命的にある油絵と違って、彫る、摺るという製作過程で、物質との格闘を通して、粘着する本質的でない「私」が削ぎおとされる。5月20日からの杜の未来舎での展示用に送られて来た作品を見て「野中さんはついに自然をつくっちゃったね」と言った若い画家の言葉が、今、彼が行き着いた世界を端的に言い当てている。
展示会の終盤我が家に投宿する彼と近くに住むアルゼンチンの彫刻家ビクトル・ユーゴーさん(本名)を交え、初鰹の叩きを魚に日本酒を飲むのが楽しみだ。
●浅草が面白い 2010.5~25
セミナーでの講義修了の後、版画家の野中光正さんのアトリエを尋ねて浅草を訪れた。昨年の11月から半年ぶりだ。今回は野中さんの案内で浅草の町をうろうろした。といっても銭湯に入り、定食屋で東京湾の魚の刺身をつまみにビールと酒をいただいただけだが。何度来ても浅草はいい。40年程前学生時代の浅草は、高齢者が訪れる郷愁の街、定番の観光地である浅草の仲店周辺だけで成り立っている裏錆びたまちという印象だった。ところが一昨年からたびたび訪れている浅草は、活気に溢れ東京で今いちばん面白い町と言える気がする。久しぶりに訪れて以来、浅草はかって訪れたパリのバスチーユと空気感がいっしょだな、と思っている。両方とも職人町の趣を残す庶民の町である一方、バスチーユでは新オペラ座、浅草ではアサヒビール本社ビルや東京スカイツリー(半分まで出来た)といったポストモダンなランドマークが辺りを睥睨している。このアンバランスな訳のわからなさがグーだ。
まずは身近に迫った展示会の案内から
●野中光正&村山耕二展 2019.9.20~28
確かに確かにモノと心がぶつかり合い、 作家の手が動いた至福の瞬間があった。 いま、見る者を、魂に映った命の鳴動と 音楽的運動の出来事、美の世界へ誘う。『ミックストメディア(木版)』と『ガラス作品』の 絶妙なコラボレーションを再び。
●野中光正展 2019.2.1〜10 ギャラリーアビアント 墨田区吾妻橋1-23-30-101
1971年、当時西新宿に超高層ビル群を次々出現させつつあった、急激な社会変化の波は、戦後の強烈な生活の匂いが漂よう下町の風景をも、かろうじて余命を保っていた江戸の面影もろともに、一気に消し去ろうとしていた。
同じ頃、野中が描いた東京下町の姿は、まるで幻の生き物のようで、建物は喘ぎ揺らいで見える。ためらいのない筆の運びで、大胆に省略が施された風景描写は、一瞬の若い魂のエッセンスと陰影を映しつつ、誰もが逃れ得ない無常の真実を浮き上がらせている。
これらの風景が、包装紙やレコードの宣伝帯、薬の袋、書店の注文票など、生活の中で出会う雑紙の切れっ端に描かれているのに驚きつつ、一層の興味を引かれる。現場にそれら多様な肌合い、色合いの紙を持参して、その場で風景にふさわしい材料を選んで描く。その独特な手法に心に働きかけてくるものに即応しようとする純粋な意志を感じる。スケッチブックを用いることが、構えて「絵」を作り上げてしまう小賢しさにつながる。そのことを強く厭う気持ちがあったのだろう。
後年、写実を離れ、画室において独自の「抽象」を描くようになっても、この製作流儀は根本的に変わらない。「絵を描くことに具象も抽象もない」という日頃の彼の言葉に、改めて得心が行った。
以上は来年1月発刊を予定されている野中光正の若き日の東京下町の風景素描集に寄せた序文である。
関連して時代はもう少し後になるが、1974年の自分自身の記憶を記しておこう。この年の夏、わたしは東京を去ることになり、何か用事があってのことなのか今や判然としないのだが、久しぶりに新宿の西口に降り立った。そこで見たものはかつての風景ではなかった。空を映して広がっているはずののどかな浄水場(淀橋浄水場)の風景は跡形もなく消え去り、広い道路とそそり立つ高層ビル群の重なりがかつての風景をいっぺんさせていた。そこには今も加速される一方の近未来的な風景が出現していたのだ。政治と情念の季節を葬り去った、そのあけっら感として明る過ぎる風景の前で、浦島太郎のように唖然とするばかりの自分がいたことを今も思い出す。
●野中光正&村山耕二展 生成と変容 2018.9/21〜26 東北工業大学ロビー
少しでも多くの方に見てもらいたい、との思いで、今回は皆さんにも立ち寄りやすい一番町の東北工業大学ギャラリーで以下展示を企画いたしました。野中さんについては人物と画家としての生き方も含めて惚れ込んで10年近く毎年のように展示会を開いています。少しでも流行や西洋の借り物ではない彼独自の抽象を理解し評価してくれる人が増えてほしいと願っています。村山さんとも付き合いが長いですが、そのオリジナルを作り出す勇気とユニークな才能にはいつも感服させられています。
1970年、20歳前後、野中は東京下町の風景を憑かれたように描いた時期があった。この今なお見る者に迫ってくるリアリティの質は、30歳前後から手がける版画の技法を駆使した「抽象」(ミクストメディア)においても変わらない。野中が自分にとって「具象」と「抽象」の区別はない、と言うこととも繋がるところだ。野中の「抽象」とは、絵画史の紋切型と化した1ジャンルではなく、心と魂の旋律を純粋状態で記述するための、彼なりのぎりぎりの本質還元への手法なのだ。顔料、ブラシ、馬連、定規、布、版木、そして門出和紙。最良の音楽家が楽器を綿密に吟味、調整するに似て、これら道具は身体に馴染むものとして、ときには自作される。何十年も日々淡々と制作を続けてきた。そのうちに、意識的営為を超え、手が滑らかに動き出し、作品が自ずから生まれていく「生成」の奇跡にも遭遇する。制作日だけを記す彼の作品は、作品がついには「名づけ得ぬもの」としてしか成立し難い、こういう事情を物語っている。
地球内部で起こっている生成と衰滅。その見えざるメタモルフォーゼを可視化する作業。砂に命を吹き込むガラス作家村山の営為は魅惑的な色とかたちの日用の器を生み出してきたが、一方で彼のうちには、太古に錬金術師が抱いた夢を思わせるより原理的な志向があった。それが炉から取り出したばかりの溶けたガラスに石を入れるという無謀な試みをも唐突に誘発させたのだろう。石は彼の手の内で爆発の危険を帯びながらも、水を注ぎ入れた瞬間、まるで生命ある物質であるかのように変容を開始したのである。それは彼にしか分からない驚きの瞬間であった。錬金術には2つの方向がある。1つは世界を追創造し、至高の価値「黄金」を作ろうとする道、自然科学の先行者となった道である。そしてもう1つは究極の奇跡「賢者の石」を極める道、人間自身の変身と変容の道である。この2つは芸術と言われる営為の本質を言い当ててはいないか。彼のうちにこの2つの芽がどのように内包され、花開いていくかこれからも注目して行きたい。
●野中光正&村山耕二展 2018.6/14〜23 杜の未来舎ぎゃらりい
創るもの、生まれるもの。このふたつがうまくミックスされ、バランスされたところに作品が生まれる。創り込みすぎてもだめ、生まれたままでもだめ。作品として成り立つには、分かたれないひとつのもの=美として成立していなければならない。このふたつを絶妙にバランスさせるものは何か。神というか、自然というか、それは人間の知恵においては、永遠の謎なのだが、作家のモチベーションの大元にあるのものに違いない。個性も年齢も出自もすべてが違うふたりが年に一度の展示会で出会い続けられるとしたら、この共通点においてだと思っている。
村山の作品は、日本からモロッコまで、世界を巡る幅広い行動力から生まれてきている。無辺の大地から抽出されたエキスが感界で捉えられ、美とつながる野生の思考に育まれ、手の内でいのちあるかたちとなって吹き出している姿を見る感動。もちろんこの錬金的変容は稀有な個性のうちだけでは生まれない。真っ先に砂や炎や光や自然の計り知れない力、そして同じ魂を持って器を日常に引き入れてくれる人々、このふたつの強力な坩堝を持つ作家の幸せ。
野中の立体作品には、地方人には真似のできない、東京下町浅草の生活に根づいた昭和モダニズムと、彼の中核にある部分、戦時中、中島飛行機の部品を作る町工場主であったという、父のDNAを受け継ぐ堅固な職人魂が見て取れる。綿密に構築する美的設計がないと、彼の「零戦」は飛翔しない。一方、従来の平面作品(木版画モノタイプ・ミックストメディア)が繊細な調和を見せるのは、それが音楽のように軽やかに優雅に舞い降りた瞬間であったのだろう。このふたつの美を成り立たせる複合的な人格の不思議さ。
●野中光正・村山耕二展 2017.4/22~30 ギャラリー絵屋 この作品展は6/5〜18杜の未来舎ぎゃらりいでも開催
新潟の町屋を再生した趣あるギャラリー「絵屋」での「野中光正・村山耕二展」。3年前初めて2人の展示会を「絵屋」代表の大倉宏さんに持ちかけた経緯もあって、私もラスト2日間会場に赴いた。今回も2人の作品が出会って心地よい協和音を奏でていた。
絵(木版を用いた混合技法)とガラスとジャンルは違うが、2人には似通った点がある。野中は、自らの創作に毎日午前中の同じ時間に始めその日のうちに終えるリズムを課している。それは日記を書くのと同じようなものだから、タイトル代わりにそっけなく日付が入っているのみだ。一方の村山の創作は、野中と違って物理的な制約に基づくものだが、炉から取り出した高熱で溶けたガラスが固まるまでの時間に限られている。
2人とも油絵や陶芸のようにかたちや色をいつまでも持て遊ぶことを避けた、あるいはできない中で創作を続けている。それは彼らの執着しない、まっすぐな性格にもあっているのだろう。そんな中でどこで手が止まるかは創作のもっとも深い秘密に属することであろう。2人とも頭で考え思いを膨らましながらではなく、手が勝手に動いてかたちができていく時があって、そういう時が気持ち良く自分が好きな作品ができていく時だと語っている。雑念を去って素の心が働く瞬間とでも言ったらよいのだろうか。
そういうとき、野中の作品であれば、もう一筆も加えられない感じで絵は絶妙なバランスで止まっているし、村山の作品であればこれ以上かたちを変えると崩れてしまいそうな繊細を極めたぎりぎりのところでかたちが止まっているように見える。止まっているというのは、そこで終わっている、ちんまりまとまっているということではない。それは次の瞬間には動き出すように生きているように止まっているのである。
そこはこの世界の向こうの美の領域の瀬戸際でもあるのだろうか。創り続けることに究極のモチベーションがあるとしたら、ヤコブの梯子のように突然降りてきた美(あるいは永遠)への階梯が垣間見られるこのめったにない瞬間を体験すること以外にはないように思う。天性の才能に加えて、当然この瞬間を呼び込むためには長い間の単調な技術的な修練も必要とされるのだろう。才能や修練の度合いでは到底及び難い単なる鑑賞者も、作品をただ見るだけで、この瞬間を盗み見ることできるとしたらなんとも幸いなことだ。
●日々の邂逅 野中光正新作展 2016.5/31~6/12
例年初夏に開催している野中光正新作展(5月31日~6月12日、10・11・12画家在廊)のポストカードのコピーを書いた。心で受け止める色とかたちとテクスチャーの世界。頭から入らずに抽象を音楽のように楽しむ人がもっと増えてほしい。
日々の邂逅
使い込んだ道具類や顔料が整然と置かれた野中氏のアトリエはラボラトリーのようだ。東京、元浅草、ビルの谷間から漏れる淡い自然光をたよりに、朝のいつもの時間、画家は支持体の和紙に対面し、毎日一枚のペースで作品を仕あげていく。永遠のようでありながら、確実に終局に向かう時間の中、その時々の感情の波立ちが微妙な色調や形の差異となる。しかし、時々向こうからやってくる何かが、自己を超えたところで奇跡のように働き、画家の手を通して、自然な美の痕跡を残す。 心地よい音楽を聴いた時に与えられる、偶さかの静かな幸福な時を見る人と共有したい。
●野中光正展 2016.2/3~12 (ギャラリーアビアント)から野中語録
野中光正さんは、浅草の画家であり版画家であり、毎年展示会をお願いしている作家さんだが、実は色彩とかたちで音楽を演奏されている方と言った方が良い気がする。すばらしい音楽を演奏するために、彼は持って生まれた才能はさることながら(20歳の時描いた風景スケッチを見ただけで、ずば抜けた才能の片鱗が見えてこの人は特別な人だなと思う)、40年以上の長い間、日々日記のように欠かさず作品を描いて、一人で何種類もの楽器(筆、色、和紙、キャンバス、版木、馬楝など)を感性が導くままに自在にこなせるまでに技量を磨いてきた。その総決算として、最近の作品には誰にも真似のできないようなすばらしいオーケストレーション(主としてクラシックの)の響きが聞かれる。
自分に与えられているものに正直な方でその自然なまっすぐさが作品にも出ている。これは受けそうだから、流行りだろうから、取り入れてやろうなんて小賢しくいやらしい計算が微塵もない。もっともそんなことをしたら、すぐ演奏に出てしまい人を感動させるようないい音楽は奏でられない。これが人の魂を表現の核に置いた抽象というジャンルの正直なところだ。
ときどきハガキをお送りいただけるがそこに書かれた言葉にはいつも心動かされる。最近届いた本所吾妻橋のギャラリーアビアントでの展覧会の案内状。そこにも作品(1980年代の旧作。線のいろんなタッチがあって面白い。上方の山のように見えるのは意図してやったわけではないが、マックスエルンストのフロッタージュのようになりましたとは本人の弁)とともに自筆の言葉が添えられていた。「描くことが生きること」である画家の言葉を、味わいのある文字といっしょに紹介したい。
●野中光正&村山耕二2人展 2015.2/5~15 新潟絵屋
木版画もガラスも外部との、それは「版木」であったり「火」であったりするが、そうした手強い物質との闘いが制作の大きな要となる。和紙に押し付けた版木は、あるいは、炉から取り出されたガラスは後戻りできない。一瞬にして魂を作品に宿らせる。
ガラス作家の村山さんは、制作に先立ち構想をスケッチしたりしない。ぶっつけで溶けたガラスをかたちにしていく。木版画家の野中さんもほとんどの作品を下絵なしで創る。いずれも生き生きとした命の流れを写すライブ・パフォーマンスなのだ。だが、これがなかなか難しい。長い間の技術的修練だけでは、心の嫌なものが出てしまうのを防ぎようがない。自然のエッセンスをつかみ、美へと昇華させることができるとしたら、天与のセンスとナイーブさをおいて他にない。かつて「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と評されたボクサーがいたが、力技をエレガントに、豪快に繊細に見せることができる点で、2人のコラボはいつも心地よく響きあうものがある。
●木版画家野中光正さんのこと 2012.4~6
浅草在住の版画家野中光正さんが電話で唐突に「モランディはやはりいいですね」という。確か2年前仙台に来られたとき、大分前東京銀座のでデパートで偶然モランディ(Giorgio Morandi, 1890年 - 1964年)の絵に出会って、しばらくその場を動けなかったという話をしたと思う。その時から大分時が過ぎていたから、彼からモランディの名前が出て来るとは全く思いもよらなかった。しばらくして4月末の展示会用に新作の版画が送られて来た。野中さん手づくりの木製の送り箱を開けると、モランディに近しい穏やかな色彩の作品が出て来た。彼の中ではモランディは長い間静かに発酵を続けていたのだろう。そのことがとてもうれしい。
野中さんは木版画という江戸以来のメディアで、モランディのように色彩と形の探求を40年近く続けて来た。毎日のように作られた版画のタイトルは製作年月の数字を羅列したものだ。この文学性を交えない素っ気なさは内なる魂と外なる自然の出会いの出来事を日々描き止めているアノニマスな記録者という感じがする。「絵をつくるとは人や人を含む自然を思うことであり、又思われることを期待する心の現れである」とは彼の言葉だが、自然を反映しながら移ろい行く命の流れの中にいる自己に何より正直で、鍛えられた手技はそれを紙面に定着するためにもっぱら用いられている。修練を重ねれば重ねるほど企みや嘘が磨かれるのか、一般には受けのよい饒舌な表現となって魂が減失していくのは凡庸な証拠だが、それがないのを天賦の才といわずして何と言おう。
20代に描き続けた東京下町の木炭デッサンにも、30になってから始めた版画に見られる純粋な一貫性が見て取れる。かって高度成長を支えた下町の風景がそこにはあって、光や空気、臭いまでがモノクロームの画面から立ち上って来るようだ。一見心を鷲掴みにするピカソのデッサンのように、描かれた線は風景のいのちをひと掴みし、画家の魂を滲ませている。何処に行くのか、すべての風景は命を持って悲しく美しくゆらいでいる。「日々を慰安が吹き荒れて 帰ってゆける場所がない」。(吉野弘)宿なしのように東京の雑踏をさまよっていた若い時を思い出す。
やがて風景デッサンは極度に省略され解体されて、キュービズムばりの試みへと移っていく。これを見ると彼は突然抽象を描き始めたのではないことが分かる。モンドリアンの百合の花の連作のように、必然の流れは写実を徐々に抽象へと導いてゆく。めざすのは自然と魂が分離しがたく結びついた世界。木版画は、ねちねちとこねまわすことが宿命的にある油絵と違って、彫る、摺るという製作過程で、物質との格闘を通して、粘着する本質的でない「私」が削ぎおとされる。5月20日からの杜の未来舎での展示用に送られて来た作品を見て「野中さんはついに自然をつくっちゃったね」と言った若い画家の言葉が、今、彼が行き着いた世界を端的に言い当てている。
展示会の終盤我が家に投宿する彼と近くに住むアルゼンチンの彫刻家ビクトル・ユーゴーさん(本名)を交え、初鰹の叩きを魚に日本酒を飲むのが楽しみだ。
●浅草が面白い 2010.5~25
セミナーでの講義修了の後、版画家の野中光正さんのアトリエを尋ねて浅草を訪れた。昨年の11月から半年ぶりだ。今回は野中さんの案内で浅草の町をうろうろした。といっても銭湯に入り、定食屋で東京湾の魚の刺身をつまみにビールと酒をいただいただけだが。何度来ても浅草はいい。40年程前学生時代の浅草は、高齢者が訪れる郷愁の街、定番の観光地である浅草の仲店周辺だけで成り立っている裏錆びたまちという印象だった。ところが一昨年からたびたび訪れている浅草は、活気に溢れ東京で今いちばん面白い町と言える気がする。久しぶりに訪れて以来、浅草はかって訪れたパリのバスチーユと空気感がいっしょだな、と思っている。両方とも職人町の趣を残す庶民の町である一方、バスチーユでは新オペラ座、浅草ではアサヒビール本社ビルや東京スカイツリー(半分まで出来た)といったポストモダンなランドマークが辺りを睥睨している。このアンバランスな訳のわからなさがグーだ。