奈良の平城京は素敵な都でしたが、徐々に仏教勢力が強くなり、朝廷を脅かすようになり、更に公地公民が崩れて私有地である荘園が増えたために、藤原氏などの貴族の勢力争いもひどくなり、国が乱れてきました。
律令政治の立て直しの目的で、794年に桓武天皇が京都の平安京に都を移しました。
京都は水陸の交通も便利で非常に条件の良い土地でした。
この先、時代は変化を続けますが、明治維新で都が東京に移るまでの1100年間、ずっと京都が都と呼ばれるようになります。
さて、律令政治の立て直しですが、どのように進められたか。
国司の不正を取り締まり、雑徭の日数を60日から30日に減らしたり、農民の兵役を取りやめにしたり。
その代わり、健児の制と呼ばれる、郡司の子弟たちによる強力な軍隊を作りました。
また東北地方で反乱をおこしていた蝦夷をおとなしくさせるために、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して、そちらも支配しました。
昔の人々も土地を所有したいという欲望が非常に強かったようで、有力な貴族や寺社は、たくさんの荘園を所有して、さらに、税をおさめなくてもよい不輸の権や、役人の立ち入りを認めない不入の権などという、信じられない権利まで手に入れました。
そして地方の中途半端な豪族は、そのような有力な貴族たちに荘園を寄付して、その権利だけ主張させてもらい、自分は気楽な地元の管理者となることが多くなりました。
そんなわけで有力な貴族や寺社はどんどん荘園を増やして権力を持ったのです。
公地公民はすっかりどこかへ消えてしまったようですね。
この時代にどんどん力を蓄えたのが貴族の藤原氏でした。
娘を天皇の后にして、自分は摂政や関白の地位について政治を思うがままに動かすようになり、これを摂関政治と呼びます。
その中でも全盛期は藤原道長です。
この世をば~という有名な歌もありますし、とにかく図に乗っていましたね。
その息子の藤原頼通もまだまだ勢力ある時代の人で、なんと50年間も摂政や関白の地位について政治の実権を握っていました。
阿弥陀堂をつくることが流行したため、頼通は京都の宇治に平等院鳳凰堂を建て、それは今でも本当に美しい建物ですから、是非しっかり見て下さい。
のんきな貴族文化ですから、どんどん発達します。
国風文化と呼ばれますが、この名前の通り、日本ならではの文化が育ちます。
理由は894年に菅原道真によって遣唐使が廃止され、日本特有の文化ができあがっていったからです。
まず、寝殿造りとよばれる日本風の屋敷ができ、優雅な生活をしていました。
男子は束帯、女子は十二単など、優美な衣装を身につける貴族がたくさんいました。
そして特筆すべきは、かな文字の発達です。
それまでは大陸から伝えられた漢字を使って書物が作られていましたが、かな文字が発明されてからは、日本人特有の感情を上手に表現できるようになり、それによって、ずいぶんたくさんの文学作品が世に出てきました。
日本最古の物語といわれる竹取物語、そして紫式部の源氏物語、清少納言の枕草子、紀貫之の土佐日記あたりはご存じでしょう。
絵画の発達もあり、大和絵と呼ばれるものが盛んになりました。
貴族たちは非常に優雅な生活をしており、寝殿造りのお屋敷で、和歌のよみ比べをしたり、けまりをしたり、頭がボケてしまうのでは、と思うくらいのんびりしていました。
ちなみに紫式部は、藤原道長の娘、彰子の家庭教師でもありました。
それに対抗して、清少納言は彰子のライバルである定子の家庭教師となり、違う意味で紫式部に闘志を燃やしていたようです。
平安時代は途中までは貴族のおっとりした文化が栄えて穏やかでしたが、そのうち武士が台頭してきて、少しずつ武家社会が始まろうとします。
それにともない、宗教も少しずつ変化が起こります。
平安時代は長いので、後半はまた次回といたします。
律令政治の立て直しの目的で、794年に桓武天皇が京都の平安京に都を移しました。
京都は水陸の交通も便利で非常に条件の良い土地でした。
この先、時代は変化を続けますが、明治維新で都が東京に移るまでの1100年間、ずっと京都が都と呼ばれるようになります。
さて、律令政治の立て直しですが、どのように進められたか。
国司の不正を取り締まり、雑徭の日数を60日から30日に減らしたり、農民の兵役を取りやめにしたり。
その代わり、健児の制と呼ばれる、郡司の子弟たちによる強力な軍隊を作りました。
また東北地方で反乱をおこしていた蝦夷をおとなしくさせるために、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して、そちらも支配しました。
昔の人々も土地を所有したいという欲望が非常に強かったようで、有力な貴族や寺社は、たくさんの荘園を所有して、さらに、税をおさめなくてもよい不輸の権や、役人の立ち入りを認めない不入の権などという、信じられない権利まで手に入れました。
そして地方の中途半端な豪族は、そのような有力な貴族たちに荘園を寄付して、その権利だけ主張させてもらい、自分は気楽な地元の管理者となることが多くなりました。
そんなわけで有力な貴族や寺社はどんどん荘園を増やして権力を持ったのです。
公地公民はすっかりどこかへ消えてしまったようですね。
この時代にどんどん力を蓄えたのが貴族の藤原氏でした。
娘を天皇の后にして、自分は摂政や関白の地位について政治を思うがままに動かすようになり、これを摂関政治と呼びます。
その中でも全盛期は藤原道長です。
この世をば~という有名な歌もありますし、とにかく図に乗っていましたね。
その息子の藤原頼通もまだまだ勢力ある時代の人で、なんと50年間も摂政や関白の地位について政治の実権を握っていました。
阿弥陀堂をつくることが流行したため、頼通は京都の宇治に平等院鳳凰堂を建て、それは今でも本当に美しい建物ですから、是非しっかり見て下さい。
のんきな貴族文化ですから、どんどん発達します。
国風文化と呼ばれますが、この名前の通り、日本ならではの文化が育ちます。
理由は894年に菅原道真によって遣唐使が廃止され、日本特有の文化ができあがっていったからです。
まず、寝殿造りとよばれる日本風の屋敷ができ、優雅な生活をしていました。
男子は束帯、女子は十二単など、優美な衣装を身につける貴族がたくさんいました。
そして特筆すべきは、かな文字の発達です。
それまでは大陸から伝えられた漢字を使って書物が作られていましたが、かな文字が発明されてからは、日本人特有の感情を上手に表現できるようになり、それによって、ずいぶんたくさんの文学作品が世に出てきました。
日本最古の物語といわれる竹取物語、そして紫式部の源氏物語、清少納言の枕草子、紀貫之の土佐日記あたりはご存じでしょう。
絵画の発達もあり、大和絵と呼ばれるものが盛んになりました。
貴族たちは非常に優雅な生活をしており、寝殿造りのお屋敷で、和歌のよみ比べをしたり、けまりをしたり、頭がボケてしまうのでは、と思うくらいのんびりしていました。
ちなみに紫式部は、藤原道長の娘、彰子の家庭教師でもありました。
それに対抗して、清少納言は彰子のライバルである定子の家庭教師となり、違う意味で紫式部に闘志を燃やしていたようです。
平安時代は途中までは貴族のおっとりした文化が栄えて穏やかでしたが、そのうち武士が台頭してきて、少しずつ武家社会が始まろうとします。
それにともない、宗教も少しずつ変化が起こります。
平安時代は長いので、後半はまた次回といたします。